開放の始まり

1985年にソ連ではミハエル ゴルバチョフ大統領が権力を持ち始めるとペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)を断行し、急進的な革命の時代となりました。ベトナムでは、1986年に改革志向のグエン ヴァン リンが共産党書記長に就任し、ソ連に追随する形で、ドイモイ(経済刷新)をカンボジアで実験し、ベトナムに導入しました。ソ連による共産主義世界への関与の縮小は、遠く離れた前哨基地であるベトナムにも影響し、カンボジアの占領を維持するのが困難になったため、1989年にベトナムはカンボジアから撤退することを一方的に決めました。ベトナムにとって共産党の生き残りが国家としての命題であり、生き残るために改革が必要でした。
しかし、1989年の東欧の劇的な変化と1991年のソ連の崩壊の一連の動きは、ハノイ政府として受け入れられるものではありませんでした。ベトナム共産党は、東欧の民主化革命を「帝国主義者からの反撃」と呼び、ブロック国家に非共産党が入り込むことを非難しました。ベトナムは政治的な変革は無いままで、市場経済のみを受け入れることに決めました。資本主義が根付くのには時間がかかりましたが、今日のダイナミックなベトナムへの成長はホーチミンも想像できなかったかもしれません。

ベトナムの敵国であった米国との関係は、近年になって改善されました。1994年の初め、米国はついに1960年代から続いていた経済制裁を解除しました。米国との外交関係は完全に回復し、ベトナム戦争に参加しなかったビル クリントン大統領は、2000年にベトナム北部を訪問した最初の米国大統領になりました。ベトナムが世界貿易機関(WTO)に加盟を支持するために、2006年にジョージ W ブッシュ大統領もベトナムを訪れました。
歴史的な敵国である中国との関係も改善されました。今でもベトナムは北部の隣人の影に怯えており、中国もベトナムを自国の反乱地域のように考えています。しかし、ベトナムの経済成長は北京の注目を集めており、また、ベトナム北部は雲南省と四川省から南シナ海への最速ルートでもあります。未来志向の協力は過去の戦争の記憶よりも重要です。
ベトナムはアセアンにも参加しました。アセアンは当初は共産主義に対する防波堤として設立された経緯がありますが、今ではベトナムはアセアンの積極的なメンバーであり、バラ色の経済成長をさらに押し上げようとしています。ベトナムの経済は年に8%以上成長しており、たくさんの観光客が訪れるようになりました。ベトナムの未来は明るいですが、最終的な成功は、ベトナムが中国の発展した道筋をいかに順調に追うことができるか、すなわち政治的自由化を伴わない経済自由化を成立させるかです。ベトナム人8000万人に対して、共産党党員は200万人であり、一歩一歩慎重に歩んでいく必要があります。

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