アメリカの参戦

アメリカは、インドシナでのフランスの植民地戦争が、共産主義拡大に対する重要な闘いだと見出しました。ベトナムは次のドミノであり、倒すことは許されませんでした。1950年に、現地部隊に米国火器を指導する名目で米軍援助諮問団(MAAG)がベトナムに派遣されましたが、その際、米軍による今後25年間のベトナム支援が表明されました。その内容は、当面は軍事顧問としての支援、有事には主力部隊としての支援が含まれました。また、1954年には、フランス軍に対する米軍の援助が20億ドルを突破しました。
米国のベトナム戦略における決定的な転換期は、1964年8月のトンキン湾事件の発生でした。米国の駆逐艦、マドックスとターナージョイの2隻が北ベトナム沿岸を航海中に、北ベトナム軍から攻撃を受けたと主張し、事件に発展しました。その後の研究によると、米軍による多くの挑発行為があったことが示されており、最初の北ベトナム軍の攻撃の際、マドックスが北ベトナムの海域で南ベトナム軍の襲撃を秘密裡に支援していたことが確認されました。また、2度目の北ベトナムからの攻撃は存在しなかったことも分かりました。
一方で、ジョンソン大統領の直接命令で、北ベトナムに実施された爆撃は64回ですが、それは米軍が実施した数千の道路や鉄道橋の襲撃作戦の一部であり、実際には北ベトナムの5788箇所の村のうち4000の村が米軍の攻撃を受けました。米軍側は戦闘機を2機を失い、エヴェレット アルバレジ中尉が最初のアメリカ人捕虜になり、8年間投獄されました。
トンキン湾事件から数日後、怒った(そして、誤解した)米国議会は圧倒的多数で「トンキン湾決議」を可決し、大統領に対し、米軍に対する攻撃を退け、さらなる侵略を防ぐために必要なあらゆる手段をとる権限を与えました。そして決議が1970年に廃止されるまで、ベトナム戦争に関しては、米国議会からの制約はなく、大統領の裁量に任されました。
南ベトナム政権の戦局がもっとも厳しくなった1965年3月に初めて米国はダナンに戦闘部隊を上陸させました。1965年12月までに184,300人の米軍兵がベトナム入りし、そのうち636人が戦死しました。そして、1967年12月までに485,600人が投入され、戦死者は16,021人に達しました。南ベトナム軍や同盟国を含めると総勢130万人の戦闘員が投入されました。
1966年にワシントンでよく使われた言葉は「和平工作」や「掃討」、「自由発砲区域」でした。和平工作には村々に国営のインフラ設備を建設して、それを護衛するために兵士を派遣するというものもありました。南ベトナム解放民族戦線の襲撃から村を守るために、機動掃討部隊が周辺地域のゲリラを捜索し、攻撃しました。村民が避難している場合は、米国は自由発砲区域と宣言して、ナパーム弾や戦車などの重火器を使用を認めました。
しかし、こうした米軍の戦略の効果は限定的なものでした。それは、日中は米軍が村落を支配していたのに対し、南ベトナム解放民族戦線は夜間に活動したからです。ゲリラは、重火器は持っていませんでしたが、待伏せしての襲撃や地雷、罠を使用した攻撃で米軍に多大な被害を与えました。また、自由発砲区域は民間人を攻撃しない前提でしたが、多くの村民が米軍からの砲撃、爆撃、機銃操作、ナパーム弾の犠牲になったため、多くの犠牲者の親族が南ベトナム解放民族戦線に加わりました。

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