開放の始まり

1985年にソ連ではミハエル ゴルバチョフ大統領が権力を持ち始めるとペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)を断行し、急進的な革命の時代となりました。ベトナムでは、1986年に改革志向のグエン ヴァン リンが共産党書記長に就任し、ソ連に追随する形で、ドイモイ(経済刷新)をカンボジアで実験し、ベトナムに導入しました。ソ連による共産主義世界への関与の縮小は、遠く離れた前哨基地であるベトナムにも影響し、カンボジアの占領を維持するのが困難になったため、1989年にベトナムはカンボジアから撤退することを一方的に決めました。ベトナムにとって共産党の生き残りが国家としての命題であり、生き残るために改革が必要でした。
しかし、1989年の東欧の劇的な変化と1991年のソ連の崩壊の一連の動きは、ハノイ政府として受け入れられるものではありませんでした。ベトナム共産党は、東欧の民主化革命を「帝国主義者からの反撃」と呼び、ブロック国家に非共産党が入り込むことを非難しました。ベトナムは政治的な変革は無いままで、市場経済のみを受け入れることに決めました。資本主義が根付くのには時間がかかりましたが、今日のダイナミックなベトナムへの成長はホーチミンも想像できなかったかもしれません。

ベトナムの敵国であった米国との関係は、近年になって改善されました。1994年の初め、米国はついに1960年代から続いていた経済制裁を解除しました。米国との外交関係は完全に回復し、ベトナム戦争に参加しなかったビル クリントン大統領は、2000年にベトナム北部を訪問した最初の米国大統領になりました。ベトナムが世界貿易機関(WTO)に加盟を支持するために、2006年にジョージ W ブッシュ大統領もベトナムを訪れました。
歴史的な敵国である中国との関係も改善されました。今でもベトナムは北部の隣人の影に怯えており、中国もベトナムを自国の反乱地域のように考えています。しかし、ベトナムの経済成長は北京の注目を集めており、また、ベトナム北部は雲南省と四川省から南シナ海への最速ルートでもあります。未来志向の協力は過去の戦争の記憶よりも重要です。
ベトナムはアセアンにも参加しました。アセアンは当初は共産主義に対する防波堤として設立された経緯がありますが、今ではベトナムはアセアンの積極的なメンバーであり、バラ色の経済成長をさらに押し上げようとしています。ベトナムの経済は年に8%以上成長しており、たくさんの観光客が訪れるようになりました。ベトナムの未来は明るいですが、最終的な成功は、ベトナムが中国の発展した道筋をいかに順調に追うことができるか、すなわち政治的自由化を伴わない経済自由化を成立させるかです。ベトナム人8000万人に対して、共産党党員は200万人であり、一歩一歩慎重に歩んでいく必要があります。

ベトナムの統一

勝利の翌日、共産主義者はサイゴンをホーチミン市に改名しました。戦後に起こった最初の変化でした。
1975年の北ベトナムの勝利は、南ベトナムだけではなく、北ベトナムにとっても突然訪れたため、ハノイ政府は社会経済システムがまったく異なる北と南の再統合に関して何も計画がありませんでした。
また、北ベトナムは文字通り国を破壊した残酷かつ長期にわたる戦争の遺産に直面しました。南北双方に戦後の苦しみと、途方もない数の問題がありました。戦争による損害は、どこに埋まっているのかわからない地雷や戦争に注力した結果、機能不全になるまで落ち込んだ経済、化学兵器によって汚染された土地、物理的・精神的にダメージを受けた国民など、平和の訪れと同時に戦争による多大な犠牲に対する対応にも直面しました。
1976年7月に正式にベトナムが統一されるまで、臨時革命政府が南ベトナムを統治しました。共産党は南部の知的階層を信頼していなかったため、南北統一への移行を管理するために北部から多数の幹部が南部に派遣されました。北ベトナムと共に戦った南部の関係者は、戦後に中枢から締め出される形となり、憤慨しました。
また、南部の社会主義への急速な移行は、経済に悪影響を及ぼす結果となりました。さらには、広範な政治的抑圧も行われ、前政権と結び付きがあった数十万の人々が、裁判を受けることもなく資産を没収され、再教育と称して強制労働収容所に投獄されました。数万人の事業者、知識人、芸術家、ジャーナリスト、作家、組合指導者、宗教指導者が恐ろしい状況に置かれることとなり、その中にはチュー政権と戦争の両方に反対していた人も含まれました。
その一方で、その経済政策とは対照的に、ベトナムは米国との和解を模索し、1978年にはワシントンとハノイの関係修復の時期が訪れようとしていました。しかし、中国とソ連の関係悪化に翻弄される形で、ハノイ政府はソ連の社会主義体制に取り込まれることになり、米国との関係修復は次の時代に先送りされることとなりました。
中国とベトナムの関係、そしてクメール ルージュと西側諸国との関係は双方ともに急速に悪化し、戦争に疲れたベトナムは再び悩まされることになりました。1978年3月になると反資本主義活動が始まり、民間の資産と事業が差し押さえられました。その犠牲者のほとんどは華僑であり、数十万人が難民や「ボート ピープル」となったため、中国との関係はさらに悪化しました。
一方、クメール ルージュによるベトナム国境地域への攻撃が頻発するようになり、ベトナム側も対応を余儀なくされ、1978年のクリスマスデーにカンボジアに侵攻しました。1979年1月7日にベトナムはクメール ルージュを駆逐し、プノンペンで親ハノイ政権を樹立することに成功しました。クメール ルージュに対するベトナムの攻撃を深刻な挑発と捉え、1979年2月に中国軍がベトナムに侵攻しましたが、17日間の戦いの後、撤退しました。
カンボジアをクメール ルージュから解放した後は、ベトナムによる支配と長期に渡る内戦が続きました。計画経済はベトナムの米農家の商業的能力を奪いました。今日のベトナムは世界有数の米輸出国ですが、1980年代初めまでは米を輸入していました。戦争と革命によってベトナムは身動きがとれなくなってしまい、急進的な方向転換が必要でした。

他国の関与

あまり知られていませんが、オーストラリア、ニュージーランド、韓国、フィリピン、タイもベトナム戦争への参加を国際支援活動と位置付け「自由世界軍」として参戦し、米国の戦争を正当化しました。
オーストラリアにとって、第二次世界大戦以降では最大規模の軍事活動への参画でした。オーストラリア軍46,852人が就役し、死傷者は496人、負傷者は2,398人でした。
ニュージーランドはオーストラリアとの連合軍として臨時部隊を派遣し、1968年には最大規模の548人が駐留し、ブンタウの北側に位置するバリア近郊で活動しました。

南ベトナムの崩壊
1973年には、一部の技術者とCIA職員を残して、すべての米軍関係者がベトナムから撤退しました。北ベトナムへの爆撃が止まり、米国人捕虜も解放されましたが、南ベトナムによって戦争は継続されました。
1975年1月に、北ベトナム軍は、戦車や迫撃砲を使用した大規模な地上攻撃を北緯17度線以南の地域に開始しました。これまで米軍に依存していた南ベトナム軍は北ベトナムの侵攻に対してパニックを起こしました。同年3月に、北ベトナム軍は中央高地の戦略拠点バンメトートを占領しました。これに応じて、南ベトナムのグエン バン チュー大統領は、戦術的撤退により防衛を固める作戦に転換しましたが、結果として重大な失策となりました。
南ベトナム軍の全旅団は崩壊し、多くの兵士が南方に逃亡し、同じく南方に向かう何十万人もの市民と合流して国道1号線が人で溢れました。フエ、ダナン、クイニョン、ニャチャンは放棄され、南ベトナム軍の逃走に北ベトナム軍はほとんど追いつけない状況でした。
グエン バン チューは1967年に大統領に就任し、1975年4月21日に辞任した後に亡命しましたが、不当な数百万ドルもの富を手にしたとも言われています。北ベトナム軍はサイゴンに侵入し、1975年4月30日の朝、戦車でサイゴンの独立宮殿(現在の統一会堂)の門を突破しました。ズオン バン ミン大統領が降伏し、戦争が終結しました。同大統領が就任してから42時間後のことでした。

最後のアメリカ人は、南ベトナムが降伏する数時間前に、ヘリコプターで米国の大使館の屋根から沖合に停泊する船に避難しました。米海兵隊がヘリコプターに群がるベトナム人を追い払うシーンは象徴的で、世界各地で報道されました。そして、四半世紀以上に渡る米軍のベトナムへの関与は終わりました。なお、米国は戦時中に、北ベトナムと戦争状態にあること認めた発言は一度もしませんでした。
ベトナムから撤退したのは米国人だけでばなく、南ベトナムの崩壊と同時に135,000人ものベトナム人が亡命しました。亡命者の数はそれから5年間で、少なくとも50万人に上りました。海上に逃れた人々は、「ボート ピープル」と呼ばれ、南シナ海の危険な旅に乗り出し、海賊による強姦や暴行、激しい嵐に生命を削られながらも、何とかオーストラリアとフランスなどに辿り着き、新たな人生を見つけました。

ニクソン ドクトリン

リチャード ニクソンは、戦争集結のための計画実行を公約に掲げ、大統領に選出されました。計画はニクソン ドクトリンとして1969年7月に発表され、アジア諸国に対して自国の軍事防衛の自立を求める内容で、具体的には、南ベトナム軍に米軍の支援無しで戦うことを意味するベトナム戦争の「ベトナム化」を求めました。最近では、米軍はイラクに対して同様の対応をしていますが、これについては、だれもブッシュ ドクトリンと呼んでいません。
「策略家ディック(ニクソン大統領のこと)」の選挙があっても、1969年前半は戦争が拡大状況にありました。4月には、ベトナムに駐留する米軍兵の数が過去最高の543,400人に達しました。戦いが激しさを増す中、ニクソンはヘンリー・キッシンジャー補佐官をパリに派遣し、北ベトナムのレ ドク トと和平に向けた交渉を開始しました。
1969年になると米軍が国境を越えて存在するベトナム共産主義者を一掃するためにカンボジアへの爆撃を開始したため、カンボジア方面の北ベトナム軍は西方に移動しました。1970年には、北ベトナム軍と対等に戦う能力が無い南ベトナム軍を救出するために米軍はカンボジアに地上部隊を派遣しました。北ベトナム軍はカンボジア領に深く入り、1970年の夏には、同盟しているクメール ルージュと共に国の半分を占領し、世界的に有名なアンコールの寺院群も支配しました。
この新たな戦局の拡大によって、米国での反戦抗議はさらに活発化しました。オハイオ州のケント州立大学で起きた平和デモでは、州兵部隊によって4人の抗議者が射殺される事件も発生しました。反戦活動にはベトナム戦争退役軍人も参加するようになり、ベトナムからの撤退を望んでいるのは、徴兵を恐れている学生だけではなく、戦争がアメリカ国内を分断したことは明らかでした。
1972年の春、北ベトナム人は北緯17度線を越えて攻撃をするようになり、これに対して米国は北ベトナムへの爆撃回数を増やし、北ベトナムの港に機雷を設置することで対抗しました。1972年末のハイフォンとハノイで起きたクリスマス爆撃は、北ベトナムとの和平交渉で譲歩を勝ち取るために行なわれました。パリ協定は、最終的に1973年1月27日に米国、北ベトナム、南ベトナム、南ベトナム解放民族戦線によって締結され、停戦、米軍の全面撤退、アメリカ人捕虜590人の解放が規定されました。パリ協定は、南ベトナムに駐留する200,000人の北ベトナム軍については言及されませんでした。
ベトナム戦争には、米軍兵として合計314万人のアメリカ人(うち女性は7200人)がベトナムに派遣されました。公式にはアメリカ人の戦死者または行方不明者は58,183人と記録されています。ペンタゴンによると、米軍は1972年までに固定翼機3689機とヘリコプター4857機を失い、1,500万トンの弾薬を使用しました。ベトナム戦争の直接的な費用は1,650億米ドルでしたが、実際に経済に与えた影響は2倍以上だったと言われています。
また、1973年末までに、南ベトナム軍は223,748人、北ベトナム軍と南ベトナム解放民族戦線の犠牲者は合わせて100万人と推定されています。加えて、一般市民(ベトナム人口の10%)のうち約4百万人が負傷または死亡しましたが、その多くは米国の爆撃によるものでした。現在でも少なくともベトナム人300,000人とアメリカ人2200人が行方不明のままです。米国の関係者はベトナム、ラオス、カンボジアで倒れた仲間の遺骨を探し続けています。ベトナム側も近年カンボジアとラオスでの独自の行方不明者捜索活動を行なっています。行方不明者の遺族には、メディアを使って遺品を捜索する人もいます。

ベトナム戦争のターニングポイント

1968年1月、北ベトナム軍は、非武装地帯のケサンで大規模な攻撃を開始しました。これはベトナム戦争で最大規模の戦いでしたが、南ベトナム軍にとってはテト攻勢から米軍の注意を逸らすための大きな罠でした。
テト攻勢は、ベトナム戦争での決定的なターニングポイントでした。1月31日の夜は、南北ベトナムともに旧正月を祝賀するものと思われましたが、南ベトナム解放民族戦線はサイゴンを含む100か所の都市や町を一斉に攻撃しました。テレビ中継で、南ベトナム解放民族戦線にサイゴン市街地にある米国大使館の中庭が占領される様子が移されました。
米軍はケソンの戦いに注力する中で、テト攻勢を受ける形となりました。テト攻勢は米軍にとっては想定外でしたが、南ベトナムと米軍は、すぐに爆撃と砲撃による強力な反撃を展開しました。攻撃の対象はジャングルだけではなく、人口密集地域にも及びました。米軍は反撃によって、南ベトナム解放民族戦線を撤退させることはできましたが、民間人の被害者を出してしまいました。南部ベンチェ省では米軍将校が「町を救うためには破壊するしかなかった」と苦渋の表情で説明しました。
テト攻勢により、米軍は約1,000人、南ベトナム軍は約2000人の死者がでましたが、南ベトナム解放民族戦線の死者はその10倍を超える約32,000人でした。前の週のケサンの戦いは米軍は約500人、南ベトナム軍は約10,000人の犠牲者がありました。
テト攻勢は南ベトナム解放民族戦線が敗北しましたが、結果としてベトナム戦争で勝利する上での重要なターニングポイントとなりました。米軍はそれまで勝利は目前だと豪語してきましたが、サイゴンで起こった戦闘と混乱がテレビ中継され、アメリカ人の多くが誇大宣伝を信じることをやめました。米軍関係者は勝利を確信していましたが、米国民にはベトナム戦争による犠牲者の拡大が容認できないレベルに達していたのです。戦争に支払う代償に米国民が耐えられなくなったため、テト攻勢は最終的に南ベトナム解放民族戦線の勝利に貢献する結果となりました。
これと同時に、ソンミ村虐殺などの非武装の民間人に対して行なわれた米軍による残虐行為も明らかになり始めたことにより、米国ではこの状況を転換するために反対派政党が連立を組みました。また、反戦デモがアメリカの大学で発生し、キャンパスから通りまで反対派が集結しました。

アメリカの参戦

アメリカは、インドシナでのフランスの植民地戦争が、共産主義拡大に対する重要な闘いだと見出しました。ベトナムは次のドミノであり、倒すことは許されませんでした。1950年に、現地部隊に米国火器を指導する名目で米軍援助諮問団(MAAG)がベトナムに派遣されましたが、その際、米軍による今後25年間のベトナム支援が表明されました。その内容は、当面は軍事顧問としての支援、有事には主力部隊としての支援が含まれました。また、1954年には、フランス軍に対する米軍の援助が20億ドルを突破しました。
米国のベトナム戦略における決定的な転換期は、1964年8月のトンキン湾事件の発生でした。米国の駆逐艦、マドックスとターナージョイの2隻が北ベトナム沿岸を航海中に、北ベトナム軍から攻撃を受けたと主張し、事件に発展しました。その後の研究によると、米軍による多くの挑発行為があったことが示されており、最初の北ベトナム軍の攻撃の際、マドックスが北ベトナムの海域で南ベトナム軍の襲撃を秘密裡に支援していたことが確認されました。また、2度目の北ベトナムからの攻撃は存在しなかったことも分かりました。
一方で、ジョンソン大統領の直接命令で、北ベトナムに実施された爆撃は64回ですが、それは米軍が実施した数千の道路や鉄道橋の襲撃作戦の一部であり、実際には北ベトナムの5788箇所の村のうち4000の村が米軍の攻撃を受けました。米軍側は戦闘機を2機を失い、エヴェレット アルバレジ中尉が最初のアメリカ人捕虜になり、8年間投獄されました。
トンキン湾事件から数日後、怒った(そして、誤解した)米国議会は圧倒的多数で「トンキン湾決議」を可決し、大統領に対し、米軍に対する攻撃を退け、さらなる侵略を防ぐために必要なあらゆる手段をとる権限を与えました。そして決議が1970年に廃止されるまで、ベトナム戦争に関しては、米国議会からの制約はなく、大統領の裁量に任されました。
南ベトナム政権の戦局がもっとも厳しくなった1965年3月に初めて米国はダナンに戦闘部隊を上陸させました。1965年12月までに184,300人の米軍兵がベトナム入りし、そのうち636人が戦死しました。そして、1967年12月までに485,600人が投入され、戦死者は16,021人に達しました。南ベトナム軍や同盟国を含めると総勢130万人の戦闘員が投入されました。
1966年にワシントンでよく使われた言葉は「和平工作」や「掃討」、「自由発砲区域」でした。和平工作には村々に国営のインフラ設備を建設して、それを護衛するために兵士を派遣するというものもありました。南ベトナム解放民族戦線の襲撃から村を守るために、機動掃討部隊が周辺地域のゲリラを捜索し、攻撃しました。村民が避難している場合は、米国は自由発砲区域と宣言して、ナパーム弾や戦車などの重火器を使用を認めました。
しかし、こうした米軍の戦略の効果は限定的なものでした。それは、日中は米軍が村落を支配していたのに対し、南ベトナム解放民族戦線は夜間に活動したからです。ゲリラは、重火器は持っていませんでしたが、待伏せしての襲撃や地雷、罠を使用した攻撃で米軍に多大な被害を与えました。また、自由発砲区域は民間人を攻撃しない前提でしたが、多くの村民が米軍からの砲撃、爆撃、機銃操作、ナパーム弾の犠牲になったため、多くの犠牲者の親族が南ベトナム解放民族戦線に加わりました。

ベトナム戦争

1959年になると北ベトナムは南ベトナムの開放に向けた活動を開始し、数年前から存在していたホーチミンルート(北から南へ向かうラオスとの国境地域を含む移動経路)が拡大されました。1960年4月には、北ベトナムで大規模な軍事徴兵が実施され、その8ヶ月後、ベトコンやVCとして知られる南ベトナム解放民族戦線の設立が発表されました。ベトコンとはベトナムの共産主義者を意味するベトナム コン サンを略したものです。また、米兵たちは彼らを侮蔑の意味を込めてVCチャーリーと呼びました。

南ベトナム解放民族戦線が活動を開始すると、ジエム政府は急速に地方の統治能力を奪われました。1962年になると南ベトナム解放民族戦線の移動を阻止するために南ベトナム軍はマラヤでの英国の戦術に基づいて戦略村計画を実施しました。戦略村計画とは、南ベトナム解放民族戦線の支援基盤を排除するために農民を強制的に「戦略的村落」に移動させる作戦です。この作戦はジエム大統領が死亡したため中止されましたが、数年後に南ベトナム解放民族戦線が大きな障害であったことを認めました。
1964年になると南ベトナムの敵は南ベトナム解放民族戦線だけではなくなり、ハノイから正規の北ベトナム軍の部隊がホーチミンルートを南下してくるようになりました。1965年初頭には、サイゴン政府は風前の灯となっていました。南ベトナム軍の腐敗と無能さは有名で、その逃亡数は月に2000人に達し、南ベトナムは毎週のように地方都市を失っていきましたが、南ベトナム軍の高官で負傷したのは10年間でたった1人だけでした。南ベトナム軍はフエとダナンへの避難を開始しようとしており、中部の高地は陥落しそうになっていましたが、ここでアメリカ人が「混乱」を一掃するタイミングも到来しました。

南ベトナムと北ベトナム

分断された南ベトナム
ジュネーブ協定が署名された後、南ベトナムは熱心な反共カトリック教徒のゴ ディン ジエムが率いる政府に支配されました。ジエム大統領の権力基盤は300日の境界線自由移動期間に北ベトナムから逃れてきた900,000人の難民によって大幅に強化されました。その支援者の多くはカトリック教徒でした。
アメリカがホーチミンの勝利を恐れたので、総選挙は実施されませんでした。ジエム大統領は最初の数年間で、犯罪組織だったビン スエン派と私軍を保有していたホアハオ教とカオダイ教を討伐し、効果的に権力を固めました。1957年の米国公式訪問中、アイゼンハワー大統領はジエム大統領をアジアの「奇跡の男」と呼びましたが、ジエム大統領は次第に反対派の扱いが残虐になり、政権運営に占める親族の割合が増していきました。
1960年代初頭、南ベトナムは大学生や仏教徒が主導した反政府運動に揺さぶられ、僧侶が公開的に焼身自殺した事件が世界に衝撃を与えました。米国はジエム大統領を責任と見なし、1963年11月に若い将軍が起こした軍事クーデターを背後から支援しました。ジエム大統領は逃亡を試みましたが、将軍たちはジエムと弟を殺害しました。しかし、ジエム大統領の常軌を逸した政策は次の軍事指導者に引き継がれました。

新しい北ベトナム
ジュネーブ協定は、ベトナム民主共和国の指導者たちがハノイに帰還し、北緯17度以北の全領土を統治することを認めました。新政府は権力を脅かす可能性の排除を開始し、何万人もの「地主」が、嫉妬深い隣人によって「治安委員会」に告発され、逮捕されました。新政府は10,000人から15,000人を処刑し、数千人を禁固刑に処しました。しかし、1956年に新政府は地方が激しい不安に陥っていることを把握すると、制御不能になることを懸念し、誤った政策の是正に取り組みました。

不吉な兆候

1945年の春までに、ベトミンは国の大部分、特に北部地域を制圧しました。8月中旬、ホーチミンはベトナム民族解放委員会を結成し、後に「8月革命」と呼ばれる全国総決起を呼びかけ、権力奪取に向けて行動を開始しました。中部では、バオダイが新政権を認める形で退位し、南部でも新政権が非共産主義組織との連立で権力を掌握しました。1945年9月2日にホーチミンは ハノイのバー ディン広場で独立を宣言しました。この間、ホーチミンは米国のトルーマン大統領と国務省宛に米国からの援助を求めて8通以上の書簡を送りましたが、返答はありませんでした。
1945年のポツダム会談では、ベトナムでの日本軍の武装解除が議題になり、中国の国民党が北緯16度より北の地域、イギリスが南の地域を担当することになりました。
英国がサイゴンに到着したとき、現地は混乱状態に陥っており、日本軍は敗北に打ちのめされ、フランス軍は脆弱化しており、ベトミンは主権を主張し、民兵がトラブルを引き起こしていました。英国に秩序回復を引き継ぎ、敗北した日本軍は解体されました。その後フランスのパラシュート部隊1400人が刑務所から解放されましたが、ホーチミンによる独立宣言に反発して街を攻撃し、男女子供に構わず暴行を加えました。これに対し、ベトミンは総攻撃を呼びかけ、フランス軍に対してゲリラ戦で対抗しました。しかし、9月24日にフランスのジャック フィリップ将軍がサイゴンに到着し、「フランスの遺産を取り戻しに来た」と高らかに宣言しました。終戦は、フランスを開放しましたが、ベトナムの植民地支配の状況は変わりませんでした。
北部では、中国の国民党軍が中国の共産主義者から逃れ、ハノイになだれ込んできました。ホーチミンは中国国民党の説得を試みましたが、国民党による占拠が長引くと、「見知らぬ悪魔より知り合いの悪魔の方がまし」と決断し、フランスの再進出を受け入れることにしました。ベトナムは、中国よりもフランスの植民地になることを選んだのです。フランスは、ベトナムをフランス領の国家として認める見返りに5年間駐屯しました。

フランスとの戦争
フランスは名目上はベトナムでの支配権を回復しましたが、1946年11月にフランスがハイフォンを砲撃し、何百人もの民間人を殺害した事件により、ベトナムの我慢が限界に達しました。数週間後のハノイでの戦闘を皮切りに、インドシナ戦争が勃発しました。ホーチミンとベトナム軍は山岳部に逃げ込み、そこで8年間戦いました。
ベトナム人の強固なナショナリズムに直面して、フランスは再度ベトナムを統治することは困難だと判断しました。米国による大規模な援助(アジアでドミノ式に共産主義が拡大するのを防ぐ努力)とベトナム人の生来の反共産主義的な国民性があったにもかかわらず、フランスにとっては勝ち目のない戦争でした。ホーチミンは当時フランスに対し「ベトナム軍がフランス軍を1名殺す間にフランス軍はベトナム軍を10名殺すだろうが、それでも最後にはベトナムが勝つ。」と言いました。
8年の戦争の後、ベトミンはベトナムとラオスとの国境付近をほぼ占領しました。1954年5月7日、57日間の包囲戦の末、ディエン ビエン フーで1万人以上の飢えたフランス人兵士がベトミンに降伏し、インドシナでのフランスの植民地政策が終わりました。翌日、ジュネーブ会談で紛争終結に向けた交渉が行われました。決議は囚人の交換を含んだもので、総選挙の実施までベトナムをベンハイ川(北緯17度線)を軍事境界線にして一次的に2つの地区に分けること、軍事境界線は300日間無料で通行可能にすること、 1956年7月20日に総選挙を実施することが規定されました。インドシナ戦争では、フランス側は35,000人以上の死者、48,000人の負傷者がでました。ベトナム側には死傷者の正確な数字はありませんが、フランス側よりはるかに被害が大きかったことは間違いありません。

フランスからの独立と第二次世界大戦

独立の願い
フランスの植民地時代を通じて、水面下でベトナム人の独立への思いが高まり、愛国主義的な定期刊行物の出版やフランスの駐屯兵の毒殺未遂など、表立った反抗が始まりました。
フエ王朝が愛国主義思想の中心であったため、フランスは皇帝を引退させ、1925年に仏国で勉強していたわずか12歳のバオ ダイに王位を継承させました。
反植民地活動の中では、土地の公平な配分を主張する共産主義が農民の不満や欲求を吸収し、拡大しました。
ベトナムの共産主義の歴史は、ホーチミンの政治活動の歴史であり、複雑に入り組んでいます。インドシナで最初のマルクス主義者グループは、1925年にホーチミンが中国 広東で設立したベトナム青年革命同志会であり、これが1930年2月のベトナム共産党設立に繋がりました。第二次世界大戦中の1941年にホーチミンはベトナム独立同盟会(通称ベトミン)を結成し、日本に抵抗しながら、広範な政治活動を行ないました。ベトミンは、国家主義活動でありながら、設立当初からホーチミンを代表する共産主義者たちによって組織されていましたが、ホーチミンは、実用主義であり、愛国心豊かな人民主義であったことから国家統一をする必要があると考えていました。

第二次世界大戦の勃発
1940年にフランスがナチスドイツに屈した際、親独のヴィシー政府についていたインドシナ連邦は日本軍のベトナムへの進駐を容認しましたが、日本軍はベトナムの統治をフランス植民地政府に任せたため、しばらくの間は日本の占領の影響はありませんでした。しかし、終戦に近づくと日本軍による米の接収が増え、同時に洪水と堤防崩壊に起因した飢饉が発生し、北ベトナムの1000万の人口のうち200万人が餓死しました。この頃ベトナムでフランスと日本に対峙できた組織は、米国からの支援を受けていたベトミンとホーチミンだけでした。ヨーロッパで戦況が進むに連れ、フランスも日本も敗戦国となったため、ベトミンはベトナムを勝ち取る機会を見出しました。