フランスからの独立と第二次世界大戦

独立の願い
フランスの植民地時代を通じて、水面下でベトナム人の独立への思いが高まり、愛国主義的な定期刊行物の出版やフランスの駐屯兵の毒殺未遂など、表立った反抗が始まりました。
フエ王朝が愛国主義思想の中心であったため、フランスは皇帝を引退させ、1925年に仏国で勉強していたわずか12歳のバオ ダイに王位を継承させました。
反植民地活動の中では、土地の公平な配分を主張する共産主義が農民の不満や欲求を吸収し、拡大しました。
ベトナムの共産主義の歴史は、ホーチミンの政治活動の歴史であり、複雑に入り組んでいます。インドシナで最初のマルクス主義者グループは、1925年にホーチミンが中国 広東で設立したベトナム青年革命同志会であり、これが1930年2月のベトナム共産党設立に繋がりました。第二次世界大戦中の1941年にホーチミンはベトナム独立同盟会(通称ベトミン)を結成し、日本に抵抗しながら、広範な政治活動を行ないました。ベトミンは、国家主義活動でありながら、設立当初からホーチミンを代表する共産主義者たちによって組織されていましたが、ホーチミンは、実用主義であり、愛国心豊かな人民主義であったことから国家統一をする必要があると考えていました。

第二次世界大戦の勃発
1940年にフランスがナチスドイツに屈した際、親独のヴィシー政府についていたインドシナ連邦は日本軍のベトナムへの進駐を容認しましたが、日本軍はベトナムの統治をフランス植民地政府に任せたため、しばらくの間は日本の占領の影響はありませんでした。しかし、終戦に近づくと日本軍による米の接収が増え、同時に洪水と堤防崩壊に起因した飢饉が発生し、北ベトナムの1000万の人口のうち200万人が餓死しました。この頃ベトナムでフランスと日本に対峙できた組織は、米国からの支援を受けていたベトミンとホーチミンだけでした。ヨーロッパで戦況が進むに連れ、フランスも日本も敗戦国となったため、ベトミンはベトナムを勝ち取る機会を見出しました。

フランスによる植民地化の始まり

1847年にフランスはベトナムでの軍事活動を開始しました。ティウ チ帝がカトリック宣教師を抑圧したことに対し、フランス海軍がダナン港を攻撃したのです。1859年の初めにサイゴンが占領され、1862年にトゥ ドゥック帝はコーチシナ東部3州をフランスの直轄領とする条約を締結しました。その後の40年間、フランスは手当たり次第にインドシナの植民地開発を行いました。フランスは何度も頓挫しながら、無茶な開発を続けました。
1872年になると、実業家ジャン デュピュイが紅河を経由して中国 雲南省の軍人に塩と武器を供給するために軍を動かし、ハノイを占領しました。フランスは軍人のフランシス ガルニエをデュピュイを拘束すると見せかけて派遣し、デュピュイに代わってガルニエに北部を制圧させました。
1883年、トゥ ドゥック帝の死去から数週間後、フランスは首都フエを攻撃し、グエン王朝にフランスがベトナムの保護国となることを認めさせました。宮廷内では、クーデターや謎に満ちた皇帝の死、フランスの圧力外交が絡んで、王位継承をかけた悲劇的な闘いがありました。
1887年にフランス領インドシナ連邦が成立し、ベトナムの独立は失われましたが、フランス統治期間中にも各地で様々な抵抗活動がありました。また、植民地化により、ベトナムの拡大政策は終了し、カンボジアとラオスの領土は強制返還されました。
フランスの植民地当局は、サイゴン-ハノイ間の鉄道建設などで雇用を促進させ野心的な公共事業を実施しましたが、その資金は現地の農民から重税を徴収して賄ったため、地域経済を破壊する結果となりました。フランスは植民地支配を通じて現地に利益を還元すると主張しましたが、ベトナム人労働者への低賃金と劣悪な労働環境により、フランスへの不満が高まりました。例えば、1917年から1944年の間に、ミシュラン社のゴム農場で働いた契約就労者45,000人のうち、12,000人が病気と栄養失調で死亡しました。

内乱時代の幕開け

内乱の時代
17~18世紀は内乱のためにベトナムが南北に分断されていました。北部には後に黎王になる強大な力を持ったチン氏がおり、南部には、北部王朝に従順なように振る舞いながらも実効支配をするグエン氏がいました。強大な力を持つチン氏は何度もグエン氏を制圧しようとしましたが、チン氏が保有するポルトガルの兵器が、オランダがグエン氏に供給した兵器より劣っていたため失敗に終わりました。一方で、グエン氏は南方へ領土を拡大し、クメールが支配していたメコンデルタを占領しました。

タイソン党の乱
1765年にクイニョン近郊のタイソンで暴動が起こりました。後にタイソン党の乱として呼ばれる暴動で、グエン兄弟が先導し、10年に満たない期間で彼らはベトナム中部地域全体を支配するようになりました。1783年、グエン兄弟はグエン氏が支配していたサイゴンを制圧し、王子とその家族を殺害しました。その後、グエン兄弟のうち、グエン ルが南部を支配し、グエン ニャックが中部を支配しました。
タイソン党の乱はその後も北部のチン氏を討伐しました。チン氏は中国に働きかけ、中国が介入しましたが、グエン3兄弟の三男のグエン フエは、自ら皇帝クワン チュンと宣言し、1789年にドン ダで中国軍に圧倒的に歴史的勝利を収め、再び中国を撃退しました。
一方、南部から先の支配者グエン氏の生き残りであるグエン アインがグエン兄弟の反乱軍に対する抗戦を開始し、次第に反乱軍を撃破していきました。グエン アインはハノイを制圧し、1802年にザー ロン皇帝と宣言、グエン王朝が始まりました。2世紀に渡る内乱は収束され、ベトナム全土が統一され、フエが新首都になりました。

グエン王朝の長期政権
ザー ロン帝は、その地位を盤石にするために儒教の価値観に立ち返り、かつてのエリート層による統治を復活させ、タイソン党の乱で乱れた秩序を取り戻しました。
ザー ロン帝の息子のミン マン帝に引き継がれると、ミン マン帝はカトリック教を儒教に対する脅威と見なし、西洋の影響があるものすべてを敵視する鎖国政策をとりました。
グエン王朝の初期の皇帝たちは、先代からの領土拡大政策を引き継ぎ、カンボジアや西方に広がる山岳地帯に侵攻しました。その領土はラオスやタイにおよびクメール王国を脅かしました。

レー ロイの登場

1418年、地方豪族のレー ロイは、国内を旅しながら、すべての財産を注いで兵力を結集し、1428年にラムソン蜂起を起こして、中国を撃退しました。その後、レー ロイは黎王朝を創立し、自らを皇帝と宣言しました。レー ロイは今日でもベトナムで高い人気を誇る英雄です。
レー ロイが中国に勝利した後、レー ロイの軍事顧問となっていたグエン チャイは、有名な独立宣言である平呉大誥を記しました。平呉大誥にはベトナムの激しい独立精神が書かれており、6世紀後に国家主義が勃興した際にも引用されました。

「おもうに我が大越国は実に文献の邦(文明の国)たり、山川の封域(領域)は既に深くして、南北(ベトナムと中国)の風俗また異なる、趙丁李陳(ベトナムの各王朝)の我が国を初めて造れるより、漢唐宋元(中国の各王朝)と各々一方に帝たり(それぞれに皇帝がいた)、強弱は時によりて不同ありといえども、豪傑は世に末だかつて乏しからず(英雄に事欠くことはなかった。)」
レー ロイとその後継者たちはチャム人を南方に追いやり、チャンパ王国を滅亡させました。また、ラオスの東部地域もベトナムへの従属を強いられました。

そしてヨーロッパ人の到来がありました。
最初にベトナムを訪れたヨーロッパ人は、1516年にダナンに上陸したポルトガルの船員で、その後すぐにドミニコ会の宣教師がやってきました。その数十年後にポルトガルはベトナムとの交易を開始し、また、日本人と中国人がファイフォ(現代のホイアン)に商業入植地を作りました。400年間スペインに占領されたフィリピンを除けば、ベトナムはアジアの国々の中で最もカトリック教の影響を受けた国です。

歴史に見る中国との関係

中国による1000年の支配
中国が紀元前2世紀に紅河デルタを征服して以来、多くの入植者、官僚、学者たちが統治を強化するためにベトナムにやってきました。
地域の指導者の中には中国に対する不満を持つ者もあり、西暦40年には、チュン姉妹(ハイ バー チュン)が反乱を起こし、中国総督を逃亡に追い込み、チュン姉妹は独立したベトナムの女王になったことを宣言しました。西暦43年になると中国側は反乱鎮圧軍を派遣し、チュン姉妹は激戦の末に敗北し、ハットザン川に身を投げました。3世紀から6世紀にかけても中国の圧政、強制労働、搾取に対し、数多くの小規模な反乱がありましたが、すべてが鎮圧されました。
この時代、ベトナムは中国とインドの間の海運の重要な拠点港であり、中国は儒教、道教、大乗仏教を、インドは上座部仏教をベトナムにもたらしました。それらの信徒たちは信仰だけではなく、科学や医学の知識もベトナムに広げたので、ベトナムからも偉大な医者や植物学者、科学者が誕生しました。
初期のベトナム人は、中国から堤防の建設や灌漑工事などの多くを学びました。これらの技術革新によって、稲作が「命の糧」となり、今日に至ってもベトナムの生活基盤となっています。食糧の生産能力の増加に伴い、人口も増加したため、ベトナム人は新たな土地を求めるようになり、西側の険しいチュンソン山脈を避けて、南方へ向かいました。

中国からの解放
10世紀初めになると、中国の唐王朝が衰退したため、ベトナム人は長年の中国の支配から脱するために反乱を起こしました。938年に、愛国者で知られるゴー クエンが、バクダン河(白藤江)の戦いで中国軍を破り、1000年の中国統治を終結させました。しかし、これがベトナムと強大な北の隣国との最後の戦いとはなりませんでした。
11世紀から13世紀にかけて、リー タイ トーが創設した李王朝は盤石な統治によって独立が守られました。李王朝時代も中国やクメール王国、チャム王国がベトナムに侵攻してきましたが、すべて撃退されました。また、ベトナムは南方への進出を続け、着々とチャム王国の領土を統合していきました。
13世紀半ばになると、モンゴルのフビライ ハーンが中国を統一し、続いて、チャンパ王国に侵攻するという口実で、ベトナムに領土を横断する権利を要求してきました。これをベトナムが拒否すると、モンゴルは50万の軍勢でベトナムに侵攻してきました。ベトナムは、伝説の将軍チャン フン ダオがモンゴルに立ち向かい、バクダン河の戦いで後世に語り継がれる歴史的勝利をおさめました。

中国の復権
中国は15世紀初頭に再びベトナムの統治権を奪取し、ベトナムの公文書と知的財産を中国に持ち去ってしまったため、ベトナムは修復不能なレベルまで文明を喪失する事態に陥りました。1407年以降、中国はベトナムの国土をほぼ制圧し、重課税と強制労働を強要しました。この時代に、詩人のグエン チャイ(1380-1442)は次の言葉を残しました。
「東の海の水を使い果たしても、不快感を洗い流すことはできない。南の山脈の竹を使い果たしても、全ての罪を記録することはできない。」

ベトナムの黎明期

ベトナムには人の心を揺さぶる豊かな歴史があります。ベトナムはアメリカとの戦争で注目を浴びましたが、その何世紀も前から中国、クメール、チャム、モンゴルとの争いの歴史が続きました。ベトナムは、中国の支配下にあった1000年間で同国から高度な文明を受け継ぎました。その後はフランスの植民地になりましたが、20世紀の後半になるまではベトナムが歴史上の表舞台に登場することはありませんでした。アメリカとの戦争は、それまで何世紀にも渡るベトナムへの侵略の歴史の最後の闘いでしたが、アメリカが何をしても、どれだけ長期戦になっても、ベトナムが屈することはありませんでした。当時ワシントンにいた指導者たちがこれから述べるベトナムの誇るべき歴史を少しでも学んでいれば、ベトナム戦争の悲劇と傷はこれほど深くならなかったのかもしれません。
ベトナムに行ったことがあれば、どの都市にも同じ名前の「通り」があることに気が付くと思います。その「通り」には、2000年以上もの間、外国からの侵攻を食い止めてきたベトナムの英雄たちの名前が記されており、その偉業は綿々と続く世代に引き継がれてきたのです。

ベトナム北部では、およそ50万年前にすでに人類の営みがあったことが最近の考古学研究で分かっています。1万年前には同じ北部地域で新石器時代になり、紀元前7000年には初期の農業が早くも始まりました。銅鼓で知られる青銅器文化のドンソン文化は、紀元前3世紀頃に現れました。
西暦1〜6世紀にかけて、ベトナムは南部は精巧な芸術と建築で知られるカンボジアのインド系王国の扶南に属していました。この王国はクメール人からはノコア プノンと呼ばれ、王国の中心は現在のカンボジア タケオ州の近くにあるアンコール ボレイに築いた防壁に守られていました。扶南人は交通と稲作の灌漑を目的とした緻密な用水システムを構築し、メコンデルタのオケオには港湾都市を持ち、中国やインドネシア、ペルシャ、地中海沿岸地域と交易をしていたことがわかっています。
現在のダナン近郊には西暦2世紀後半にヒンズー教のチャンパ王国が興りました。 チャンパ王国は扶南と同じく、サンスクリット語を使い、芸術や文化もインドの影響を強く受けました。8世紀になると、チャンパ王国は南方の現在のニャチャンやファンランの周辺にまで拡大しました。チャム王国は好戦的で、インドシナ各地を襲撃し、北部のベトナム人と南部のクメール人は常に戦争状態にありましたが、次第にチャム王国にとって戦争が重荷になり、南北を大国に挟まれることにより力を失っていきました。ダナンのチャム彫刻博物館にはチャム王国の彫刻品が展示されていますので、訪れてみて下さい。