アメリカの参戦

アメリカは、インドシナでのフランスの植民地戦争が、共産主義拡大に対する重要な闘いだと見出しました。ベトナムは次のドミノであり、倒すことは許されませんでした。1950年に、現地部隊に米国火器を指導する名目で米軍援助諮問団(MAAG)がベトナムに派遣されましたが、その際、米軍による今後25年間のベトナム支援が表明されました。その内容は、当面は軍事顧問としての支援、有事には主力部隊としての支援が含まれました。また、1954年には、フランス軍に対する米軍の援助が20億ドルを突破しました。
米国のベトナム戦略における決定的な転換期は、1964年8月のトンキン湾事件の発生でした。米国の駆逐艦、マドックスとターナージョイの2隻が北ベトナム沿岸を航海中に、北ベトナム軍から攻撃を受けたと主張し、事件に発展しました。その後の研究によると、米軍による多くの挑発行為があったことが示されており、最初の北ベトナム軍の攻撃の際、マドックスが北ベトナムの海域で南ベトナム軍の襲撃を秘密裡に支援していたことが確認されました。また、2度目の北ベトナムからの攻撃は存在しなかったことも分かりました。
一方で、ジョンソン大統領の直接命令で、北ベトナムに実施された爆撃は64回ですが、それは米軍が実施した数千の道路や鉄道橋の襲撃作戦の一部であり、実際には北ベトナムの5788箇所の村のうち4000の村が米軍の攻撃を受けました。米軍側は戦闘機を2機を失い、エヴェレット アルバレジ中尉が最初のアメリカ人捕虜になり、8年間投獄されました。
トンキン湾事件から数日後、怒った(そして、誤解した)米国議会は圧倒的多数で「トンキン湾決議」を可決し、大統領に対し、米軍に対する攻撃を退け、さらなる侵略を防ぐために必要なあらゆる手段をとる権限を与えました。そして決議が1970年に廃止されるまで、ベトナム戦争に関しては、米国議会からの制約はなく、大統領の裁量に任されました。
南ベトナム政権の戦局がもっとも厳しくなった1965年3月に初めて米国はダナンに戦闘部隊を上陸させました。1965年12月までに184,300人の米軍兵がベトナム入りし、そのうち636人が戦死しました。そして、1967年12月までに485,600人が投入され、戦死者は16,021人に達しました。南ベトナム軍や同盟国を含めると総勢130万人の戦闘員が投入されました。
1966年にワシントンでよく使われた言葉は「和平工作」や「掃討」、「自由発砲区域」でした。和平工作には村々に国営のインフラ設備を建設して、それを護衛するために兵士を派遣するというものもありました。南ベトナム解放民族戦線の襲撃から村を守るために、機動掃討部隊が周辺地域のゲリラを捜索し、攻撃しました。村民が避難している場合は、米国は自由発砲区域と宣言して、ナパーム弾や戦車などの重火器を使用を認めました。
しかし、こうした米軍の戦略の効果は限定的なものでした。それは、日中は米軍が村落を支配していたのに対し、南ベトナム解放民族戦線は夜間に活動したからです。ゲリラは、重火器は持っていませんでしたが、待伏せしての襲撃や地雷、罠を使用した攻撃で米軍に多大な被害を与えました。また、自由発砲区域は民間人を攻撃しない前提でしたが、多くの村民が米軍からの砲撃、爆撃、機銃操作、ナパーム弾の犠牲になったため、多くの犠牲者の親族が南ベトナム解放民族戦線に加わりました。

製造業の種類

製造業に転職するといっても、製造業にはどういったものを作るかを知らないといけません。
そこで製造業で主な業種から、それぞれどのようなものを作っているかを紹介致します。

食料品

食料品の製造業には、食品加工が有名だと思います。他にはコンビニの弁当や惣菜、パンやお菓子、缶詰などを作っています。とりわけ海外になると、弁当や食材は減りますが、日本向けの冷凍野菜や冷凍魚類などが増えてきます。
海外での転職ポジションとしては管理者を雇用することはあるようですが技術者の雇用は少ないよう感じます。作業としては単純な手作業もしくはロボットや機械になることが多いからだと思います。単純な手作業は現地スタッフの賃金が安いため、そこに日本人を雇うことはありません。

縫製製品

繊維を原料とする製品で衣料品などが有名です。こちらも食料品と同様に海外では技術者の雇用は少ないようです。しかし、繊維や生地に関する知識のある人や、品質管理などの出来る人が重宝されるようで、東南アジア地域での転職であっても日本よりも給料が高くなることが多いですが、異業種からの転職は難しいです。

パルプ・紙

紙製品としては、製紙から紙食器、トイレットペーパーや生理用品なども含まれます。紙の資源となる木が取れる地域か、そのような地域の近くであれば仕事はあるようですが、海外では少ないです。
紙袋などの包装品は、少しでも単価を下げるために東南アジア地域に進出しているようです。バリバリの技術者よりは品質管理などが出来る事務よりの人が求められる傾向があります。

化学

医薬品や化粧品、塗料などを製造します。特殊な知識が必要とされるので技術者などは現地採用での雇用をしていないです。ほとんど日本からの駐在になり、現地で雇う場合は現地スタッフとなります。ただ内需を考えられている会社では、営業を募集していることはあるので、技術的な経験がありコミュニケーション能力が高い場合は探してみるのも良いかと思います。

石油・石炭製品

石油を精製する工場や購入した原料を加工して油やグリースを製造する工場などが、これに当たります。
化学系同様の理由から営業職の現地採用はあっても技術者の募集はあまり見かけません。

ゴム製品

ゴムやタイヤ、チューブなどを製造しています。

ガラス・土石製品

ガラス製の食器や容器を製造しています。

鉄鋼・非鉄金属

製造業のイメージはつきにくいですが、これも製造業です。

金属製品

金属でできているもの。刃物や工具から自動車部品に至るまで金属で出来ているものは多いです。海外での転職先としては、金属加工業が多いです。特に自動車部品の製造業での募集が多く見かけます。また技術者雇用としては、この業種が群を抜いて多いです。金型やプレス加工の知識や経験を持っていれば転職の機会は多く、待遇面にも期待できます。

機械・電気機器・精密機器

機械や電気機器の製造をします。製造業がなくならない限り、必要な業種です。

輸送機器

自動車やバイク、船舶などの人やものを輸送するのに欠かせない製品を製造します。輸送機器の製造業は海外進出している企業が多いため、海外では仕事が多いです。また駐在員が多いのも特徴です。輸送機器の製造業に携わっていて、海外で転職するとなると、品質管理を経験していると仕事を見つけやすいです。

プラスチック製品

輸送機器の部品やプラスチック容器などを製造しています。プラスチック成型などの技術や経験があると海外での転職には有効です。

製造業への転職する際に覚えておきたい良いことと悪いこと

製造業への転職する際に覚えておきたい良いことと悪いことをまとめました。

先ずは悪いことから記載します。

①キツイ・クサイ・キタナイの3Kがつきまとう。
基本的にどこの職場にいっても製造業は3Kから逃れられることは少ないです。
夏は地獄的なくらい暑く、冬は死ぬかと思うくらい寒いです。
ただ冬の寒さは服を着込めば何とかなりますが、夏は脱ぐと言っても限界があるので大変です。
気温・機械が発する熱・身体を動かした熱これらが相まって水分を取っても取っても出て行くという感じです。
ちなみに最初に働いていた会社では派遣社員を雇ったことがありましたが、毎回10時の10分休憩の時にギブアップして帰ってしまうということが何度かありました。

②腰痛や肩こり、腱鞘炎になることが多い
身体に負担をかけるような姿勢での長時間に及ぶ作業があったり、身体の一部分だけを集中的に酷使しなければいけないことがあったりするため、腰痛や肩こり、腱鞘炎になる人が多いです。症状の重さは人それぞれですが、軽度であっても慢性的な症状となることが多いです。

③太る人が多い
仕事中は肉体労働が多いので何もしないでも痩せていると思われがちですが、実際は太っている人が多い職場です。慢性的な腰痛や肩こりになる人が多いせいか、週末は運動をせずに休養に当てる人が多いようです。また勤務中に多くの汗をかくので夜の晩酌が進む人も多いと聞きます。このことから太る人が多いです。

④生命の危険や事故の危険が身近にある
作業する機械によって安全装置がハイテクになってきているため、最近では全然聞かなくなりましたが、私が大学を卒業して初めて就職した会社では年に何回か事故が起こっていました。相手は機械なので、少しの不注意でも大きな怪我になりかねませんでした。今までで一度だけ、命の危険が脅かされる事故を目撃しました。
そのため、オフィスで働く人と比べれば、生命の危険にさらされている仕事だと思います。

⑤出会いが少ない
3Kの職場なので出会いが少なく、プライベートな時間を使って積極的に行動を起こさない限り、女性との交際や結婚は程遠いものがあります。ただ大きな企業になればなるほど、女性が働く事務系のポジションもあるようです。

⑥賃金が安い
未経験で入社すると賃金が安い。
高卒の場合は15万円前後、大卒でも18万円前後のことが多いです。

続いて良いことは。

①勤務時間がしっかりしているので残業も少ない
朝8時から夕方5時までの1日8時間労働というところが多く、昼休みや10時や15時など適度な休憩時間を取れる。
繁忙期や期末は忙しくなり残業がありますが、基本的には残業がないことが多いです。
また体育会系のノリの従業員が多いこともあって、仕事終わりに飲む機会が多いので和気藹々とした職場が多いです。

②長期休暇が長めにある
お盆と正月、GWなどはオフィス系の仕事と違って休みが1週間単位であるので、GWと正月休みは2週間近く取れることがあります。ただ小さな工場や下請けになると大企業にスケジュールを合わせるので休み前に発注が多くなると休みが少なくなることがあるようです。

③各種資格を取得出来る、また取得するのに会社が協力してくれる
製造業の工場によっては資格を必要とする作業が伴うことが多く、会社より資格を取得するように言われる。その時は、会社が協力してくれるので、将来の転職活動をするときに非常に役に立つことがあります。
また自分のための資格にもかかわらず取得費用は会社が負担してくれるので、至れり尽せりです。

④結果が見えやすい
自分の仕事の結果が見えやすいのでモチベーションを維持しやすい。

以上、製造業への転職する際に覚えておきたい良いことと悪いことを紹介しましたが、製造業に少しでも興味を持っていただけましたか。

ベトナム戦争

1959年になると北ベトナムは南ベトナムの開放に向けた活動を開始し、数年前から存在していたホーチミンルート(北から南へ向かうラオスとの国境地域を含む移動経路)が拡大されました。1960年4月には、北ベトナムで大規模な軍事徴兵が実施され、その8ヶ月後、ベトコンやVCとして知られる南ベトナム解放民族戦線の設立が発表されました。ベトコンとはベトナムの共産主義者を意味するベトナム コン サンを略したものです。また、米兵たちは彼らを侮蔑の意味を込めてVCチャーリーと呼びました。

南ベトナム解放民族戦線が活動を開始すると、ジエム政府は急速に地方の統治能力を奪われました。1962年になると南ベトナム解放民族戦線の移動を阻止するために南ベトナム軍はマラヤでの英国の戦術に基づいて戦略村計画を実施しました。戦略村計画とは、南ベトナム解放民族戦線の支援基盤を排除するために農民を強制的に「戦略的村落」に移動させる作戦です。この作戦はジエム大統領が死亡したため中止されましたが、数年後に南ベトナム解放民族戦線が大きな障害であったことを認めました。
1964年になると南ベトナムの敵は南ベトナム解放民族戦線だけではなくなり、ハノイから正規の北ベトナム軍の部隊がホーチミンルートを南下してくるようになりました。1965年初頭には、サイゴン政府は風前の灯となっていました。南ベトナム軍の腐敗と無能さは有名で、その逃亡数は月に2000人に達し、南ベトナムは毎週のように地方都市を失っていきましたが、南ベトナム軍の高官で負傷したのは10年間でたった1人だけでした。南ベトナム軍はフエとダナンへの避難を開始しようとしており、中部の高地は陥落しそうになっていましたが、ここでアメリカ人が「混乱」を一掃するタイミングも到来しました。

製造業について簡単にまとめました。

若ければ製造業へ転職することはメリットだらけだと前回の記事でお伝えしましたが、
やはり製造業へ転職をする方にとって製造業とはどんなものかを簡単にまとめました。

今回は、それらについて記載します。

私が製造業に就職する前に抱いていたことはキツイ・キタナイ・クサイと言ったイメージでした。
ただ私は工業高校出身で工業系の学部を出ているので製造業で就職するのが当たり前だった人です。
その私でも、イメージは決して良いものではありませんでした。
なので少しでも3Kから離れられそうなポジションにつきたく機械工学や自動化に関しての知識を広げていました。

ちなみにキツイ・キタナイ・クサイとは3Kと呼ばれることがあり、不人気の原因だと考えています。
日本でも慢性的な人手不足に陥りやすいのに、海外となると尚更ですよね。

ところで製造業の仕事のイメージってどんなものを抱いていますか。

一番多いのが「肉体労働」だと思いますが、「肉体労働」だけではやっていけません。
就職してから驚かされるのは、小さい工場でも大きな工場でも事務仕事が意外にも多いのに驚かされます。
事務仕事の主な例は、作業管理表の作成・記入、品質検査表の作成記入、提案書の作成、発表会や会議の議事録の作成など組織が大きくなればなるほど、事務仕事が増えていくと思います。
自営業でやっている町の鉄工所なら職人肌でもやっていけるかも知れないですが、会社組織でやっていくのであればコミュニケーション能力が以外と必要になってきます。社内の折衝だけでなく、工員への指示、顧客への説明など、コミュニケーションが問われることが多々あります。これには工業高校時代から誰もが知っている大手企業へ入社した友人でさえ、コミュニケーションで苦労したと聞かされました。彼は頭がよく手先が器用で、技術にも定評があったにもかかわらず、コミュニケーション能力で出世することが出来ませんでした。

南ベトナムと北ベトナム

分断された南ベトナム
ジュネーブ協定が署名された後、南ベトナムは熱心な反共カトリック教徒のゴ ディン ジエムが率いる政府に支配されました。ジエム大統領の権力基盤は300日の境界線自由移動期間に北ベトナムから逃れてきた900,000人の難民によって大幅に強化されました。その支援者の多くはカトリック教徒でした。
アメリカがホーチミンの勝利を恐れたので、総選挙は実施されませんでした。ジエム大統領は最初の数年間で、犯罪組織だったビン スエン派と私軍を保有していたホアハオ教とカオダイ教を討伐し、効果的に権力を固めました。1957年の米国公式訪問中、アイゼンハワー大統領はジエム大統領をアジアの「奇跡の男」と呼びましたが、ジエム大統領は次第に反対派の扱いが残虐になり、政権運営に占める親族の割合が増していきました。
1960年代初頭、南ベトナムは大学生や仏教徒が主導した反政府運動に揺さぶられ、僧侶が公開的に焼身自殺した事件が世界に衝撃を与えました。米国はジエム大統領を責任と見なし、1963年11月に若い将軍が起こした軍事クーデターを背後から支援しました。ジエム大統領は逃亡を試みましたが、将軍たちはジエムと弟を殺害しました。しかし、ジエム大統領の常軌を逸した政策は次の軍事指導者に引き継がれました。

新しい北ベトナム
ジュネーブ協定は、ベトナム民主共和国の指導者たちがハノイに帰還し、北緯17度以北の全領土を統治することを認めました。新政府は権力を脅かす可能性の排除を開始し、何万人もの「地主」が、嫉妬深い隣人によって「治安委員会」に告発され、逮捕されました。新政府は10,000人から15,000人を処刑し、数千人を禁固刑に処しました。しかし、1956年に新政府は地方が激しい不安に陥っていることを把握すると、制御不能になることを懸念し、誤った政策の是正に取り組みました。

ベトナムで働くなら製造業への転職が熱い

私が転職して技術指導でベトナムへ訪れ始めたのは13年前になります。
私が働いていたのは自動車部品などを製造するメーカーでしたので
その時は現地採用での日本人スタッフを探すのはとても大変でした。
しかし最近はベトナムに住んでいる日本人が多くなったので、日本人スタッフを探すのは以前よりかは簡単になりましたが、技術者となると話は別です。友人が住むタイであっても技術者を探すのが大変なようです。

ここからが本題です。

この記事にたどり着いた人は、転職を考えられているからか、私の他の記事を読んで頂いているかのどちらかだと思います。転職を考えられている人に向けて記載しますので、ここでは歴史の話はしません。

オフィスなどで働いている人が製造業への転職を目指そうとすると大変だと思います。
未経験で働ける場所もありますが日本ですと、現在の給料より下がることが多いです。
海外で転職先を見つけた場合も給料が下がるのは同じです。

しかし、一つだけ大きな違う点があります。

海外で働く場合、生活費も下がるということ。
製造業であれば、下手をすると海外と日本で同じ給料のからスタートすることがあります。
それは私が働いていた外資系企業も未経験での就職者は日本でも中国でもベトナムでも同じ金額でした。
理由として海外拠点の製造業では慢性的に人手不足になっていることが大きいです。

また慢性的に人手不足になっているということから
勘の良い人なら気づかれる人もいるかと思います。
そうです、慢性的に人手不足ということは長く働けるということです。

現在、20代や30代で転職を考えている人は
製造業への転職を考えられるのはいかがでしょうか。

*40代50代となると、未経験でも可能な求人案件が少なくなるので製造業へ転職するならば30代までだと思います。

不吉な兆候

1945年の春までに、ベトミンは国の大部分、特に北部地域を制圧しました。8月中旬、ホーチミンはベトナム民族解放委員会を結成し、後に「8月革命」と呼ばれる全国総決起を呼びかけ、権力奪取に向けて行動を開始しました。中部では、バオダイが新政権を認める形で退位し、南部でも新政権が非共産主義組織との連立で権力を掌握しました。1945年9月2日にホーチミンは ハノイのバー ディン広場で独立を宣言しました。この間、ホーチミンは米国のトルーマン大統領と国務省宛に米国からの援助を求めて8通以上の書簡を送りましたが、返答はありませんでした。
1945年のポツダム会談では、ベトナムでの日本軍の武装解除が議題になり、中国の国民党が北緯16度より北の地域、イギリスが南の地域を担当することになりました。
英国がサイゴンに到着したとき、現地は混乱状態に陥っており、日本軍は敗北に打ちのめされ、フランス軍は脆弱化しており、ベトミンは主権を主張し、民兵がトラブルを引き起こしていました。英国に秩序回復を引き継ぎ、敗北した日本軍は解体されました。その後フランスのパラシュート部隊1400人が刑務所から解放されましたが、ホーチミンによる独立宣言に反発して街を攻撃し、男女子供に構わず暴行を加えました。これに対し、ベトミンは総攻撃を呼びかけ、フランス軍に対してゲリラ戦で対抗しました。しかし、9月24日にフランスのジャック フィリップ将軍がサイゴンに到着し、「フランスの遺産を取り戻しに来た」と高らかに宣言しました。終戦は、フランスを開放しましたが、ベトナムの植民地支配の状況は変わりませんでした。
北部では、中国の国民党軍が中国の共産主義者から逃れ、ハノイになだれ込んできました。ホーチミンは中国国民党の説得を試みましたが、国民党による占拠が長引くと、「見知らぬ悪魔より知り合いの悪魔の方がまし」と決断し、フランスの再進出を受け入れることにしました。ベトナムは、中国よりもフランスの植民地になることを選んだのです。フランスは、ベトナムをフランス領の国家として認める見返りに5年間駐屯しました。

フランスとの戦争
フランスは名目上はベトナムでの支配権を回復しましたが、1946年11月にフランスがハイフォンを砲撃し、何百人もの民間人を殺害した事件により、ベトナムの我慢が限界に達しました。数週間後のハノイでの戦闘を皮切りに、インドシナ戦争が勃発しました。ホーチミンとベトナム軍は山岳部に逃げ込み、そこで8年間戦いました。
ベトナム人の強固なナショナリズムに直面して、フランスは再度ベトナムを統治することは困難だと判断しました。米国による大規模な援助(アジアでドミノ式に共産主義が拡大するのを防ぐ努力)とベトナム人の生来の反共産主義的な国民性があったにもかかわらず、フランスにとっては勝ち目のない戦争でした。ホーチミンは当時フランスに対し「ベトナム軍がフランス軍を1名殺す間にフランス軍はベトナム軍を10名殺すだろうが、それでも最後にはベトナムが勝つ。」と言いました。
8年の戦争の後、ベトミンはベトナムとラオスとの国境付近をほぼ占領しました。1954年5月7日、57日間の包囲戦の末、ディエン ビエン フーで1万人以上の飢えたフランス人兵士がベトミンに降伏し、インドシナでのフランスの植民地政策が終わりました。翌日、ジュネーブ会談で紛争終結に向けた交渉が行われました。決議は囚人の交換を含んだもので、総選挙の実施までベトナムをベンハイ川(北緯17度線)を軍事境界線にして一次的に2つの地区に分けること、軍事境界線は300日間無料で通行可能にすること、 1956年7月20日に総選挙を実施することが規定されました。インドシナ戦争では、フランス側は35,000人以上の死者、48,000人の負傷者がでました。ベトナム側には死傷者の正確な数字はありませんが、フランス側よりはるかに被害が大きかったことは間違いありません。

フランスからの独立と第二次世界大戦

独立の願い
フランスの植民地時代を通じて、水面下でベトナム人の独立への思いが高まり、愛国主義的な定期刊行物の出版やフランスの駐屯兵の毒殺未遂など、表立った反抗が始まりました。
フエ王朝が愛国主義思想の中心であったため、フランスは皇帝を引退させ、1925年に仏国で勉強していたわずか12歳のバオ ダイに王位を継承させました。
反植民地活動の中では、土地の公平な配分を主張する共産主義が農民の不満や欲求を吸収し、拡大しました。
ベトナムの共産主義の歴史は、ホーチミンの政治活動の歴史であり、複雑に入り組んでいます。インドシナで最初のマルクス主義者グループは、1925年にホーチミンが中国 広東で設立したベトナム青年革命同志会であり、これが1930年2月のベトナム共産党設立に繋がりました。第二次世界大戦中の1941年にホーチミンはベトナム独立同盟会(通称ベトミン)を結成し、日本に抵抗しながら、広範な政治活動を行ないました。ベトミンは、国家主義活動でありながら、設立当初からホーチミンを代表する共産主義者たちによって組織されていましたが、ホーチミンは、実用主義であり、愛国心豊かな人民主義であったことから国家統一をする必要があると考えていました。

第二次世界大戦の勃発
1940年にフランスがナチスドイツに屈した際、親独のヴィシー政府についていたインドシナ連邦は日本軍のベトナムへの進駐を容認しましたが、日本軍はベトナムの統治をフランス植民地政府に任せたため、しばらくの間は日本の占領の影響はありませんでした。しかし、終戦に近づくと日本軍による米の接収が増え、同時に洪水と堤防崩壊に起因した飢饉が発生し、北ベトナムの1000万の人口のうち200万人が餓死しました。この頃ベトナムでフランスと日本に対峙できた組織は、米国からの支援を受けていたベトミンとホーチミンだけでした。ヨーロッパで戦況が進むに連れ、フランスも日本も敗戦国となったため、ベトミンはベトナムを勝ち取る機会を見出しました。

フランスによる植民地化の始まり

1847年にフランスはベトナムでの軍事活動を開始しました。ティウ チ帝がカトリック宣教師を抑圧したことに対し、フランス海軍がダナン港を攻撃したのです。1859年の初めにサイゴンが占領され、1862年にトゥ ドゥック帝はコーチシナ東部3州をフランスの直轄領とする条約を締結しました。その後の40年間、フランスは手当たり次第にインドシナの植民地開発を行いました。フランスは何度も頓挫しながら、無茶な開発を続けました。
1872年になると、実業家ジャン デュピュイが紅河を経由して中国 雲南省の軍人に塩と武器を供給するために軍を動かし、ハノイを占領しました。フランスは軍人のフランシス ガルニエをデュピュイを拘束すると見せかけて派遣し、デュピュイに代わってガルニエに北部を制圧させました。
1883年、トゥ ドゥック帝の死去から数週間後、フランスは首都フエを攻撃し、グエン王朝にフランスがベトナムの保護国となることを認めさせました。宮廷内では、クーデターや謎に満ちた皇帝の死、フランスの圧力外交が絡んで、王位継承をかけた悲劇的な闘いがありました。
1887年にフランス領インドシナ連邦が成立し、ベトナムの独立は失われましたが、フランス統治期間中にも各地で様々な抵抗活動がありました。また、植民地化により、ベトナムの拡大政策は終了し、カンボジアとラオスの領土は強制返還されました。
フランスの植民地当局は、サイゴン-ハノイ間の鉄道建設などで雇用を促進させ野心的な公共事業を実施しましたが、その資金は現地の農民から重税を徴収して賄ったため、地域経済を破壊する結果となりました。フランスは植民地支配を通じて現地に利益を還元すると主張しましたが、ベトナム人労働者への低賃金と劣悪な労働環境により、フランスへの不満が高まりました。例えば、1917年から1944年の間に、ミシュラン社のゴム農場で働いた契約就労者45,000人のうち、12,000人が病気と栄養失調で死亡しました。