勤務する日本語学校でクリスマス会をしました。

去る12月23日土曜日、私がベトナムで転職をした日本語学校のクリスマス会がありました。
自由参加制にも関わらず、多くの生徒に参加してもらえました。

私の勤める日本語学校のクリスマス会は、例年英語・ベトナム語が禁止となってるくらいで日本で行われるクリスマス会と特に変わりません。強いていうならば、今年は日本からの学生インターンシップでハノイに訪れている方々が日本のおとぎ話「さるかに合戦」の演劇を披露してくれたくらいでしょうか。

ちなみにベトナムはタイや中国の影響から仏教が多いのですが、意外にもキリスト教も普及しております。私のハノイの家の近くにはキリスト教の教会があるのですが、日曜日は道路にも人、人、人で溢れかえっていました。心なしか普段よりもミサや賛美歌のボリュームが大きかったように思えます。

例年、このクリスマス会が終わると、ベトナムの日本語学校はテトへ向かってカウントダウンが始まります。特に1年間コースの生徒さんをメインで請け負っている先生方は、次年度のカリキュラム作成などで大わらわになるのですが、2018年度の始まりはテトの影響で例年より遅く3月初旬からとなっており、ゆったりとされている印象です。
口を出さずにはいられない性格なので、仲の良い先生には「今年は手伝いませんよ」と話しております。

ベトナムに訪れたら街歩きを楽しんで欲しいです。

ベトナムの歴史が好きですと街歩きはとっても楽しくて健康的なアクティビティだと思います。
その理由はベトナムの偉人の多くが街の名前や通りの名前になっていることです。日本では結構珍しいことですが、海外ですとイギリスやオーストラリアでもよくあるんです。ただ私が訪れた国の中でベトナムだけは、地名や通りとその名前に意味合いが強いんです。
私が日本語を教えているクラスのベトナム人に何度も情熱を持って語っているのですが、口をぽかんと開けて「だから?」みたいな顔をされます。ベトナムの歴史が好きな外国人からすると、感動するものがあります。
正直、ハノイは地図だけで楽しめると思うので、歩くのであればホーチミンの方がオススメです。

オススメポイント

ハイバーチュン。ベトナムで働いている日本人じゃなくても、ベトナムに訪れたことがある人はハイバーチュンという言葉を聞いたことがあると思います。ホーチミンですと、ハイバーチュン通りは市内中心部から郊外へと伸びる通りで最長とも言われるほど長い通りです。ハノイですと、最大とされる区でベトナム有数の大学が集まっています。
最長と最大を聞いてわかる通り、ハイバーチュンに対するベトナム人の敬意はすごいんだと思います。
ちなみにハイバーチュンとは、チュンソクとチュンニを合わせてチュン姉妹と言う意味があります。彼女たちは、当時ベトナムを支配していた後漢に対して反乱を起こしたことで有名です。そして、後にベトナムのジャンヌダルク(生年はジャンヌダルクの方が後)とも呼ばれ、ベトナム人のプライドの象徴ともなっています。
姉 チュンソクに関しては数々の伝説を含めて色々と情報があるものの、妹 チュンニに関しては出生すらも定かになっていないんです。

開放の始まり

1985年にソ連ではミハエル ゴルバチョフ大統領が権力を持ち始めるとペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)を断行し、急進的な革命の時代となりました。ベトナムでは、1986年に改革志向のグエン ヴァン リンが共産党書記長に就任し、ソ連に追随する形で、ドイモイ(経済刷新)をカンボジアで実験し、ベトナムに導入しました。ソ連による共産主義世界への関与の縮小は、遠く離れた前哨基地であるベトナムにも影響し、カンボジアの占領を維持するのが困難になったため、1989年にベトナムはカンボジアから撤退することを一方的に決めました。ベトナムにとって共産党の生き残りが国家としての命題であり、生き残るために改革が必要でした。
しかし、1989年の東欧の劇的な変化と1991年のソ連の崩壊の一連の動きは、ハノイ政府として受け入れられるものではありませんでした。ベトナム共産党は、東欧の民主化革命を「帝国主義者からの反撃」と呼び、ブロック国家に非共産党が入り込むことを非難しました。ベトナムは政治的な変革は無いままで、市場経済のみを受け入れることに決めました。資本主義が根付くのには時間がかかりましたが、今日のダイナミックなベトナムへの成長はホーチミンも想像できなかったかもしれません。

ベトナムの敵国であった米国との関係は、近年になって改善されました。1994年の初め、米国はついに1960年代から続いていた経済制裁を解除しました。米国との外交関係は完全に回復し、ベトナム戦争に参加しなかったビル クリントン大統領は、2000年にベトナム北部を訪問した最初の米国大統領になりました。ベトナムが世界貿易機関(WTO)に加盟を支持するために、2006年にジョージ W ブッシュ大統領もベトナムを訪れました。
歴史的な敵国である中国との関係も改善されました。今でもベトナムは北部の隣人の影に怯えており、中国もベトナムを自国の反乱地域のように考えています。しかし、ベトナムの経済成長は北京の注目を集めており、また、ベトナム北部は雲南省と四川省から南シナ海への最速ルートでもあります。未来志向の協力は過去の戦争の記憶よりも重要です。
ベトナムはアセアンにも参加しました。アセアンは当初は共産主義に対する防波堤として設立された経緯がありますが、今ではベトナムはアセアンの積極的なメンバーであり、バラ色の経済成長をさらに押し上げようとしています。ベトナムの経済は年に8%以上成長しており、たくさんの観光客が訪れるようになりました。ベトナムの未来は明るいですが、最終的な成功は、ベトナムが中国の発展した道筋をいかに順調に追うことができるか、すなわち政治的自由化を伴わない経済自由化を成立させるかです。ベトナム人8000万人に対して、共産党党員は200万人であり、一歩一歩慎重に歩んでいく必要があります。

ベトナムの製造業で転職を成功させるために覚えておきたいこと

ベトナムの製造業は、中国の物価上昇と外資系企業への冷遇からチャイナプラスワンと言われ、中国から近隣の東南アジア諸国へ製造業の拠点が移ってきたことにより、日系企業をはじめとして多くの外資系企業が進出をしています。
この流れは、一度止まったかのように思われましたが、タイの不景気、カンボジアの交通の便の悪さなどから、また加速しているように思われます。
製造業のベトナム進出はまだまだ増えると見込まれており、また新しい工業団地の建設や自治体などによる誘致活動が行われています。
将来的に見てもベトナムにおける製造業の雇用は技術者を含めて増えていくことが予想されています。

ベトナムの製造業で転職を成功させるために覚えておきたいことをまとめました。

その1、年齢について
ベトナムの製造業にて募集される年齢は日本で俗に言われる35歳までということはほとんどありません。”ほとんど”といった理由は、技術職希望で未経験となると、やはり35歳までとなります。しかし、未経験でなければ、年齢はあまり気にする必要はありません。また技術職(特に金型関連やインジェクションモールド・プラスチック成型)は、日本で定年を迎えてからでも転職することは可能です。給料は気にせず手当程度でも良いとされる方なら、技術指導というポジションで70歳を越えている方がおられます。

その2、未経験からの転職
未経験からの転職の場合は、日本でもらっていた給料よりも下がることは確実です。こればかりは避けられません。日本よりも物価の低い東南アジア地域(ベトナムやタイ、カンボジアなど)での転職は、経験者であっても給料が下がることが多いですので、未経験となると下がるという覚悟はしておいてください。
しかし、ベトナムは物価が低いので、奥さんや家族が居ない場合ですと夜遊びだけしなければ1ヶ月1500ドル(未経験で日本人の場合、給料相場は1500ドルスタートが多い)で家賃・生活費・光熱費などを払っても月に300ドル以上を貯金することが可能です。特に大手の製造業に入社すれば、ランチは工場内の食堂で済ますことが出来るため、貯金額はもっと増えると考えられます。

その3、未経験職種への転職
製造業の経験があっても、未経験職種への転職をする場合、年齢が高くなければ採用される可能性は高いです。年齢が50歳を越えてくると、新しいことを覚えることや作業上体力的に難しいと採用をしてくれる企業様が考えられることが多いため、未経験職種への転職は50歳までだと思います。ただ営業や事務方の仕事に関しては、会社方針次第で採用されることがあります。

その4、収入アップを期待した転職
製造業において収入アップを期待して転職する場合、最低条件として希望転職職種の経験があることです。
しかし、製造業において日本からベトナムへの転職は、引き抜きやヘッドハンティングを除くと収入アップをさせるのは難しいです。それは、先述の通りベトナムは日本よりも物価が安いことが理由としてあげられます。
ただタイやカンボジアなどの東南アジアからベトナムの製造業へ転職をする場合は収入アップが期待できます。理由として、同じ東南アジアではシンガポールを除けば物価の違いは大きくないことがあります。

その5、役職を上げるための転職
東南アジアの中ではベトナムは好景気な国の一つです。また日本人というだけで管理職になれる国でもあります。そのため、役職を上げるための転職を成功させるには向いている国だと言えます。ただ、日本から直接ベトナムへの転職で役職を上げるとなると、とても大きな苦労が必要なことは覚悟しておいてください。日本でも、転職時に役職を上げると前職よりも大きな期待やプレッシャーがかかります。これが、海外、ベトナムになると、下についてくるのがベトナム人になりますので、日本人とは生活習慣や考え方、言語などが違うので大変です。そのため、ベトナム人の出勤管理や技術指導のポジションであれば良いですが、そうでない場合は覚悟を決めてからの方が良いです。

その6、外資系企業への転職
外資系企業への転職は日系企業と比べて語学というハードルがあります。日系製造業の場合、事務方でない限り英語やベトナム語を必要としません。しかし、外資系となると、英語が最低限必須です。また文化や価値観、仕事のやり方などが違うため、中高年から外資系企業への転職ですととても大変だと思います。しかし、語学力に自信がある20代・30代であれば、日本とは違う環境でいろんなことを吸収できるので凄いチャンスだと思います。

その7、転職回数
ベトナムにある日系企業の場合、転職回数が多いと嫌われがちです。毎回の転職した理由を聞かれます。しかし、面接時に転職ごとの理由が明確に説明することが出来れば、クリアになるケースもあります。ただ書類段階で落とされることもあります。

その8、転職サイト・転職エージェントの見つけ方
ベトナムにおける製造業への転職の場合、経験者と未経験者では新しい就職先を探す方法は大きく異なってきます。未経験の場合は、転職サイトなどで”未経験可”という求人情報を見つけ直接応募すれば良いですが、経験者の場合は違ってきます。経験者の場合は、会社によって経験出来ることが違ってきます。転職サイトで運良く同業他社の同じポジションを見つけることが出来ればスムーズに転職が出来ますが、正直そんなにスムーズにいきません。
そこで役に立つのが転職エージェントです。日本国内の転職であれば大手の名の知れたエージェント会社に任せれば良いのですが、日本で有名なエージェント会社の多くはベトナムではまだまだ無名か小さいところが多いです。それは、進出してきてまだ2、3年というところばかりです。
製造業の求人担当者は、10年前後前からベトナムに来ている人が多く、日本では無名でもベトナムに古くからある人材紹介会社やエージェント会社の方が関係を築いてます。互いに良く知っていることから、表面的なことだけでなく込み入ったことも相談に乗ってくれたり対応してくれたりします。
このことからもわかるように経験者であればあるほど、ベトナムに古くからある人材紹介会社を利用することが良いです。また古くからある人材紹介会社には製造業を担当するエージェントや製造業に詳しいエージェントがいるので、最適な職場を見つけてくれます。募集が行われていなくても、日系製造業との関係から推薦してくれ転職を成功するということも良くあります。

ベトナムにある人材紹介会社を紹介します。
製造業への転職を成功させるための人材紹介会社 キャリアリンクベトナム
AGSリクルートメントなら製造業への転職が出来ます

その9、給料交渉
転職時に給料交渉を行って良いと思っている人が多く見られますが、日系企業の場合はあまり良く思われないです。しかし、人材紹介会社を利用すると代わりに交渉をしてくれるので悪い印象を与えることなくスムーズに運びます。

その10、転職に有利な時期
日本ですと5月や10月などと言われますが、ベトナムの場合は特にありません。ただ1月・2月はベトナムの正月があり10日前後の長期休暇があるため、製造業にとっては慌ただしくなりがちです。そのため、この時期だけは外した方が良いです。

ベトナムの統一

勝利の翌日、共産主義者はサイゴンをホーチミン市に改名しました。戦後に起こった最初の変化でした。
1975年の北ベトナムの勝利は、南ベトナムだけではなく、北ベトナムにとっても突然訪れたため、ハノイ政府は社会経済システムがまったく異なる北と南の再統合に関して何も計画がありませんでした。
また、北ベトナムは文字通り国を破壊した残酷かつ長期にわたる戦争の遺産に直面しました。南北双方に戦後の苦しみと、途方もない数の問題がありました。戦争による損害は、どこに埋まっているのかわからない地雷や戦争に注力した結果、機能不全になるまで落ち込んだ経済、化学兵器によって汚染された土地、物理的・精神的にダメージを受けた国民など、平和の訪れと同時に戦争による多大な犠牲に対する対応にも直面しました。
1976年7月に正式にベトナムが統一されるまで、臨時革命政府が南ベトナムを統治しました。共産党は南部の知的階層を信頼していなかったため、南北統一への移行を管理するために北部から多数の幹部が南部に派遣されました。北ベトナムと共に戦った南部の関係者は、戦後に中枢から締め出される形となり、憤慨しました。
また、南部の社会主義への急速な移行は、経済に悪影響を及ぼす結果となりました。さらには、広範な政治的抑圧も行われ、前政権と結び付きがあった数十万の人々が、裁判を受けることもなく資産を没収され、再教育と称して強制労働収容所に投獄されました。数万人の事業者、知識人、芸術家、ジャーナリスト、作家、組合指導者、宗教指導者が恐ろしい状況に置かれることとなり、その中にはチュー政権と戦争の両方に反対していた人も含まれました。
その一方で、その経済政策とは対照的に、ベトナムは米国との和解を模索し、1978年にはワシントンとハノイの関係修復の時期が訪れようとしていました。しかし、中国とソ連の関係悪化に翻弄される形で、ハノイ政府はソ連の社会主義体制に取り込まれることになり、米国との関係修復は次の時代に先送りされることとなりました。
中国とベトナムの関係、そしてクメール ルージュと西側諸国との関係は双方ともに急速に悪化し、戦争に疲れたベトナムは再び悩まされることになりました。1978年3月になると反資本主義活動が始まり、民間の資産と事業が差し押さえられました。その犠牲者のほとんどは華僑であり、数十万人が難民や「ボート ピープル」となったため、中国との関係はさらに悪化しました。
一方、クメール ルージュによるベトナム国境地域への攻撃が頻発するようになり、ベトナム側も対応を余儀なくされ、1978年のクリスマスデーにカンボジアに侵攻しました。1979年1月7日にベトナムはクメール ルージュを駆逐し、プノンペンで親ハノイ政権を樹立することに成功しました。クメール ルージュに対するベトナムの攻撃を深刻な挑発と捉え、1979年2月に中国軍がベトナムに侵攻しましたが、17日間の戦いの後、撤退しました。
カンボジアをクメール ルージュから解放した後は、ベトナムによる支配と長期に渡る内戦が続きました。計画経済はベトナムの米農家の商業的能力を奪いました。今日のベトナムは世界有数の米輸出国ですが、1980年代初めまでは米を輸入していました。戦争と革命によってベトナムは身動きがとれなくなってしまい、急進的な方向転換が必要でした。

他国の関与

あまり知られていませんが、オーストラリア、ニュージーランド、韓国、フィリピン、タイもベトナム戦争への参加を国際支援活動と位置付け「自由世界軍」として参戦し、米国の戦争を正当化しました。
オーストラリアにとって、第二次世界大戦以降では最大規模の軍事活動への参画でした。オーストラリア軍46,852人が就役し、死傷者は496人、負傷者は2,398人でした。
ニュージーランドはオーストラリアとの連合軍として臨時部隊を派遣し、1968年には最大規模の548人が駐留し、ブンタウの北側に位置するバリア近郊で活動しました。

南ベトナムの崩壊
1973年には、一部の技術者とCIA職員を残して、すべての米軍関係者がベトナムから撤退しました。北ベトナムへの爆撃が止まり、米国人捕虜も解放されましたが、南ベトナムによって戦争は継続されました。
1975年1月に、北ベトナム軍は、戦車や迫撃砲を使用した大規模な地上攻撃を北緯17度線以南の地域に開始しました。これまで米軍に依存していた南ベトナム軍は北ベトナムの侵攻に対してパニックを起こしました。同年3月に、北ベトナム軍は中央高地の戦略拠点バンメトートを占領しました。これに応じて、南ベトナムのグエン バン チュー大統領は、戦術的撤退により防衛を固める作戦に転換しましたが、結果として重大な失策となりました。
南ベトナム軍の全旅団は崩壊し、多くの兵士が南方に逃亡し、同じく南方に向かう何十万人もの市民と合流して国道1号線が人で溢れました。フエ、ダナン、クイニョン、ニャチャンは放棄され、南ベトナム軍の逃走に北ベトナム軍はほとんど追いつけない状況でした。
グエン バン チューは1967年に大統領に就任し、1975年4月21日に辞任した後に亡命しましたが、不当な数百万ドルもの富を手にしたとも言われています。北ベトナム軍はサイゴンに侵入し、1975年4月30日の朝、戦車でサイゴンの独立宮殿(現在の統一会堂)の門を突破しました。ズオン バン ミン大統領が降伏し、戦争が終結しました。同大統領が就任してから42時間後のことでした。

最後のアメリカ人は、南ベトナムが降伏する数時間前に、ヘリコプターで米国の大使館の屋根から沖合に停泊する船に避難しました。米海兵隊がヘリコプターに群がるベトナム人を追い払うシーンは象徴的で、世界各地で報道されました。そして、四半世紀以上に渡る米軍のベトナムへの関与は終わりました。なお、米国は戦時中に、北ベトナムと戦争状態にあること認めた発言は一度もしませんでした。
ベトナムから撤退したのは米国人だけでばなく、南ベトナムの崩壊と同時に135,000人ものベトナム人が亡命しました。亡命者の数はそれから5年間で、少なくとも50万人に上りました。海上に逃れた人々は、「ボート ピープル」と呼ばれ、南シナ海の危険な旅に乗り出し、海賊による強姦や暴行、激しい嵐に生命を削られながらも、何とかオーストラリアとフランスなどに辿り着き、新たな人生を見つけました。

製造業の仕事にはどのような職種があるのかを説明します。

製造業に就職する際に覚えておきたい製造業の仕事について、どのような職種があるのかを説明します。
ただ同じ製造業であっても、会社によってはあるものとないものがあります。

製造

製造機械や工具などを使って製品を製作するポジションとなります。工作機械や射出成型器などのオペレーターや溶接技師などが該当する職種となります。専門的な技術や資格が必要なポジションになるため、ベトナムなどの海外では未経験からの転職は難しい職種となります。ただ給料は高めに設定されていることが多いので経験が有る人にとっては、良いポジションだと思います。

軽作業

比較的単純な作業のことで、上述の製造ポジションの人の補助的な作業を行うことがあります。専門的な知識や資格が必要ないため、未経験からの転職機会があるポジションとなります。軽作業のポジションから製造や後述する生産管理などの仕事をさせてもらえるようになってくるので長く働くことを考えている場合は良いと思います。

品質管理

製品の外観チェックや梱包、ラベル貼りなどの仕事をするポジションです。比較的身体の負荷がない職種なので、女性も働いています。また慣れるまでに時間がかかりますが、業種によっては専門的な資格や経験を必要としないことも多いです。そのため、年齢が若いということが条件になってきますが、未経験でも転職機会が多いポジションでもあります。募集を見かけたら挑戦してみるのも良いと思います。

生産管理

製品や材料などを管理し製造工程の計画や出荷を担当する職種です。会社の規模によっては製造を兼業することもありますが、倉庫管理などの事務職を兼業することが多いです。特別な資格や経験は必要とされませんが、製造工程などを理解する必要があるため、未経験での転職は意外にも少なく、どちらかというと経験者の方が転職しやすいです。

倉庫管理

材料の在庫などを管理する職種です。生産管理と兼業することや、生産管理の一部の仕事をすることもあります。生産管理同様に専門的な資格や経験は必要とされませんが、フォークリフトの免許が必要な場合もあります。

輸出入

海外へ出荷するためのコンテナなどの調整を行います。日本勤務の場合、あまり見られないポジションですが、ベトナムなどの海外となると製品を日本本社へ出荷するという会社が多いです。そのため、輸出入の知識やコンテナなどの調整、出荷管理を行うポジションが必要となります。製造業未経験でも問題ない職種ですが、英語などの語学力が必要となってきます。

以上が大まかな製造業の職種となります。ここに記載しなかった仕事では経理などの事務系の仕事もあります。会社運営というポジションもありますが、会社によって異なるので記載しませんでした。

ニクソン ドクトリン

リチャード ニクソンは、戦争集結のための計画実行を公約に掲げ、大統領に選出されました。計画はニクソン ドクトリンとして1969年7月に発表され、アジア諸国に対して自国の軍事防衛の自立を求める内容で、具体的には、南ベトナム軍に米軍の支援無しで戦うことを意味するベトナム戦争の「ベトナム化」を求めました。最近では、米軍はイラクに対して同様の対応をしていますが、これについては、だれもブッシュ ドクトリンと呼んでいません。
「策略家ディック(ニクソン大統領のこと)」の選挙があっても、1969年前半は戦争が拡大状況にありました。4月には、ベトナムに駐留する米軍兵の数が過去最高の543,400人に達しました。戦いが激しさを増す中、ニクソンはヘンリー・キッシンジャー補佐官をパリに派遣し、北ベトナムのレ ドク トと和平に向けた交渉を開始しました。
1969年になると米軍が国境を越えて存在するベトナム共産主義者を一掃するためにカンボジアへの爆撃を開始したため、カンボジア方面の北ベトナム軍は西方に移動しました。1970年には、北ベトナム軍と対等に戦う能力が無い南ベトナム軍を救出するために米軍はカンボジアに地上部隊を派遣しました。北ベトナム軍はカンボジア領に深く入り、1970年の夏には、同盟しているクメール ルージュと共に国の半分を占領し、世界的に有名なアンコールの寺院群も支配しました。
この新たな戦局の拡大によって、米国での反戦抗議はさらに活発化しました。オハイオ州のケント州立大学で起きた平和デモでは、州兵部隊によって4人の抗議者が射殺される事件も発生しました。反戦活動にはベトナム戦争退役軍人も参加するようになり、ベトナムからの撤退を望んでいるのは、徴兵を恐れている学生だけではなく、戦争がアメリカ国内を分断したことは明らかでした。
1972年の春、北ベトナム人は北緯17度線を越えて攻撃をするようになり、これに対して米国は北ベトナムへの爆撃回数を増やし、北ベトナムの港に機雷を設置することで対抗しました。1972年末のハイフォンとハノイで起きたクリスマス爆撃は、北ベトナムとの和平交渉で譲歩を勝ち取るために行なわれました。パリ協定は、最終的に1973年1月27日に米国、北ベトナム、南ベトナム、南ベトナム解放民族戦線によって締結され、停戦、米軍の全面撤退、アメリカ人捕虜590人の解放が規定されました。パリ協定は、南ベトナムに駐留する200,000人の北ベトナム軍については言及されませんでした。
ベトナム戦争には、米軍兵として合計314万人のアメリカ人(うち女性は7200人)がベトナムに派遣されました。公式にはアメリカ人の戦死者または行方不明者は58,183人と記録されています。ペンタゴンによると、米軍は1972年までに固定翼機3689機とヘリコプター4857機を失い、1,500万トンの弾薬を使用しました。ベトナム戦争の直接的な費用は1,650億米ドルでしたが、実際に経済に与えた影響は2倍以上だったと言われています。
また、1973年末までに、南ベトナム軍は223,748人、北ベトナム軍と南ベトナム解放民族戦線の犠牲者は合わせて100万人と推定されています。加えて、一般市民(ベトナム人口の10%)のうち約4百万人が負傷または死亡しましたが、その多くは米国の爆撃によるものでした。現在でも少なくともベトナム人300,000人とアメリカ人2200人が行方不明のままです。米国の関係者はベトナム、ラオス、カンボジアで倒れた仲間の遺骨を探し続けています。ベトナム側も近年カンボジアとラオスでの独自の行方不明者捜索活動を行なっています。行方不明者の遺族には、メディアを使って遺品を捜索する人もいます。

ベトナム戦争のターニングポイント

1968年1月、北ベトナム軍は、非武装地帯のケサンで大規模な攻撃を開始しました。これはベトナム戦争で最大規模の戦いでしたが、南ベトナム軍にとってはテト攻勢から米軍の注意を逸らすための大きな罠でした。
テト攻勢は、ベトナム戦争での決定的なターニングポイントでした。1月31日の夜は、南北ベトナムともに旧正月を祝賀するものと思われましたが、南ベトナム解放民族戦線はサイゴンを含む100か所の都市や町を一斉に攻撃しました。テレビ中継で、南ベトナム解放民族戦線にサイゴン市街地にある米国大使館の中庭が占領される様子が移されました。
米軍はケソンの戦いに注力する中で、テト攻勢を受ける形となりました。テト攻勢は米軍にとっては想定外でしたが、南ベトナムと米軍は、すぐに爆撃と砲撃による強力な反撃を展開しました。攻撃の対象はジャングルだけではなく、人口密集地域にも及びました。米軍は反撃によって、南ベトナム解放民族戦線を撤退させることはできましたが、民間人の被害者を出してしまいました。南部ベンチェ省では米軍将校が「町を救うためには破壊するしかなかった」と苦渋の表情で説明しました。
テト攻勢により、米軍は約1,000人、南ベトナム軍は約2000人の死者がでましたが、南ベトナム解放民族戦線の死者はその10倍を超える約32,000人でした。前の週のケサンの戦いは米軍は約500人、南ベトナム軍は約10,000人の犠牲者がありました。
テト攻勢は南ベトナム解放民族戦線が敗北しましたが、結果としてベトナム戦争で勝利する上での重要なターニングポイントとなりました。米軍はそれまで勝利は目前だと豪語してきましたが、サイゴンで起こった戦闘と混乱がテレビ中継され、アメリカ人の多くが誇大宣伝を信じることをやめました。米軍関係者は勝利を確信していましたが、米国民にはベトナム戦争による犠牲者の拡大が容認できないレベルに達していたのです。戦争に支払う代償に米国民が耐えられなくなったため、テト攻勢は最終的に南ベトナム解放民族戦線の勝利に貢献する結果となりました。
これと同時に、ソンミ村虐殺などの非武装の民間人に対して行なわれた米軍による残虐行為も明らかになり始めたことにより、米国ではこの状況を転換するために反対派政党が連立を組みました。また、反戦デモがアメリカの大学で発生し、キャンパスから通りまで反対派が集結しました。