ベトナムの統一

勝利の翌日、共産主義者はサイゴンをホーチミン市に改名しました。戦後に起こった最初の変化でした。
1975年の北ベトナムの勝利は、南ベトナムだけではなく、北ベトナムにとっても突然訪れたため、ハノイ政府は社会経済システムがまったく異なる北と南の再統合に関して何も計画がありませんでした。
また、北ベトナムは文字通り国を破壊した残酷かつ長期にわたる戦争の遺産に直面しました。南北双方に戦後の苦しみと、途方もない数の問題がありました。戦争による損害は、どこに埋まっているのかわからない地雷や戦争に注力した結果、機能不全になるまで落ち込んだ経済、化学兵器によって汚染された土地、物理的・精神的にダメージを受けた国民など、平和の訪れと同時に戦争による多大な犠牲に対する対応にも直面しました。
1976年7月に正式にベトナムが統一されるまで、臨時革命政府が南ベトナムを統治しました。共産党は南部の知的階層を信頼していなかったため、南北統一への移行を管理するために北部から多数の幹部が南部に派遣されました。北ベトナムと共に戦った南部の関係者は、戦後に中枢から締め出される形となり、憤慨しました。
また、南部の社会主義への急速な移行は、経済に悪影響を及ぼす結果となりました。さらには、広範な政治的抑圧も行われ、前政権と結び付きがあった数十万の人々が、裁判を受けることもなく資産を没収され、再教育と称して強制労働収容所に投獄されました。数万人の事業者、知識人、芸術家、ジャーナリスト、作家、組合指導者、宗教指導者が恐ろしい状況に置かれることとなり、その中にはチュー政権と戦争の両方に反対していた人も含まれました。
その一方で、その経済政策とは対照的に、ベトナムは米国との和解を模索し、1978年にはワシントンとハノイの関係修復の時期が訪れようとしていました。しかし、中国とソ連の関係悪化に翻弄される形で、ハノイ政府はソ連の社会主義体制に取り込まれることになり、米国との関係修復は次の時代に先送りされることとなりました。
中国とベトナムの関係、そしてクメール ルージュと西側諸国との関係は双方ともに急速に悪化し、戦争に疲れたベトナムは再び悩まされることになりました。1978年3月になると反資本主義活動が始まり、民間の資産と事業が差し押さえられました。その犠牲者のほとんどは華僑であり、数十万人が難民や「ボート ピープル」となったため、中国との関係はさらに悪化しました。
一方、クメール ルージュによるベトナム国境地域への攻撃が頻発するようになり、ベトナム側も対応を余儀なくされ、1978年のクリスマスデーにカンボジアに侵攻しました。1979年1月7日にベトナムはクメール ルージュを駆逐し、プノンペンで親ハノイ政権を樹立することに成功しました。クメール ルージュに対するベトナムの攻撃を深刻な挑発と捉え、1979年2月に中国軍がベトナムに侵攻しましたが、17日間の戦いの後、撤退しました。
カンボジアをクメール ルージュから解放した後は、ベトナムによる支配と長期に渡る内戦が続きました。計画経済はベトナムの米農家の商業的能力を奪いました。今日のベトナムは世界有数の米輸出国ですが、1980年代初めまでは米を輸入していました。戦争と革命によってベトナムは身動きがとれなくなってしまい、急進的な方向転換が必要でした。