不吉な兆候

1945年の春までに、ベトミンは国の大部分、特に北部地域を制圧しました。8月中旬、ホーチミンはベトナム民族解放委員会を結成し、後に「8月革命」と呼ばれる全国総決起を呼びかけ、権力奪取に向けて行動を開始しました。中部では、バオダイが新政権を認める形で退位し、南部でも新政権が非共産主義組織との連立で権力を掌握しました。1945年9月2日にホーチミンは ハノイのバー ディン広場で独立を宣言しました。この間、ホーチミンは米国のトルーマン大統領と国務省宛に米国からの援助を求めて8通以上の書簡を送りましたが、返答はありませんでした。
1945年のポツダム会談では、ベトナムでの日本軍の武装解除が議題になり、中国の国民党が北緯16度より北の地域、イギリスが南の地域を担当することになりました。
英国がサイゴンに到着したとき、現地は混乱状態に陥っており、日本軍は敗北に打ちのめされ、フランス軍は脆弱化しており、ベトミンは主権を主張し、民兵がトラブルを引き起こしていました。英国に秩序回復を引き継ぎ、敗北した日本軍は解体されました。その後フランスのパラシュート部隊1400人が刑務所から解放されましたが、ホーチミンによる独立宣言に反発して街を攻撃し、男女子供に構わず暴行を加えました。これに対し、ベトミンは総攻撃を呼びかけ、フランス軍に対してゲリラ戦で対抗しました。しかし、9月24日にフランスのジャック フィリップ将軍がサイゴンに到着し、「フランスの遺産を取り戻しに来た」と高らかに宣言しました。終戦は、フランスを開放しましたが、ベトナムの植民地支配の状況は変わりませんでした。
北部では、中国の国民党軍が中国の共産主義者から逃れ、ハノイになだれ込んできました。ホーチミンは中国国民党の説得を試みましたが、国民党による占拠が長引くと、「見知らぬ悪魔より知り合いの悪魔の方がまし」と決断し、フランスの再進出を受け入れることにしました。ベトナムは、中国よりもフランスの植民地になることを選んだのです。フランスは、ベトナムをフランス領の国家として認める見返りに5年間駐屯しました。

フランスとの戦争
フランスは名目上はベトナムでの支配権を回復しましたが、1946年11月にフランスがハイフォンを砲撃し、何百人もの民間人を殺害した事件により、ベトナムの我慢が限界に達しました。数週間後のハノイでの戦闘を皮切りに、インドシナ戦争が勃発しました。ホーチミンとベトナム軍は山岳部に逃げ込み、そこで8年間戦いました。
ベトナム人の強固なナショナリズムに直面して、フランスは再度ベトナムを統治することは困難だと判断しました。米国による大規模な援助(アジアでドミノ式に共産主義が拡大するのを防ぐ努力)とベトナム人の生来の反共産主義的な国民性があったにもかかわらず、フランスにとっては勝ち目のない戦争でした。ホーチミンは当時フランスに対し「ベトナム軍がフランス軍を1名殺す間にフランス軍はベトナム軍を10名殺すだろうが、それでも最後にはベトナムが勝つ。」と言いました。
8年の戦争の後、ベトミンはベトナムとラオスとの国境付近をほぼ占領しました。1954年5月7日、57日間の包囲戦の末、ディエン ビエン フーで1万人以上の飢えたフランス人兵士がベトミンに降伏し、インドシナでのフランスの植民地政策が終わりました。翌日、ジュネーブ会談で紛争終結に向けた交渉が行われました。決議は囚人の交換を含んだもので、総選挙の実施までベトナムをベンハイ川(北緯17度線)を軍事境界線にして一次的に2つの地区に分けること、軍事境界線は300日間無料で通行可能にすること、 1956年7月20日に総選挙を実施することが規定されました。インドシナ戦争では、フランス側は35,000人以上の死者、48,000人の負傷者がでました。ベトナム側には死傷者の正確な数字はありませんが、フランス側よりはるかに被害が大きかったことは間違いありません。

フランスによる植民地化の始まり

1847年にフランスはベトナムでの軍事活動を開始しました。ティウ チ帝がカトリック宣教師を抑圧したことに対し、フランス海軍がダナン港を攻撃したのです。1859年の初めにサイゴンが占領され、1862年にトゥ ドゥック帝はコーチシナ東部3州をフランスの直轄領とする条約を締結しました。その後の40年間、フランスは手当たり次第にインドシナの植民地開発を行いました。フランスは何度も頓挫しながら、無茶な開発を続けました。
1872年になると、実業家ジャン デュピュイが紅河を経由して中国 雲南省の軍人に塩と武器を供給するために軍を動かし、ハノイを占領しました。フランスは軍人のフランシス ガルニエをデュピュイを拘束すると見せかけて派遣し、デュピュイに代わってガルニエに北部を制圧させました。
1883年、トゥ ドゥック帝の死去から数週間後、フランスは首都フエを攻撃し、グエン王朝にフランスがベトナムの保護国となることを認めさせました。宮廷内では、クーデターや謎に満ちた皇帝の死、フランスの圧力外交が絡んで、王位継承をかけた悲劇的な闘いがありました。
1887年にフランス領インドシナ連邦が成立し、ベトナムの独立は失われましたが、フランス統治期間中にも各地で様々な抵抗活動がありました。また、植民地化により、ベトナムの拡大政策は終了し、カンボジアとラオスの領土は強制返還されました。
フランスの植民地当局は、サイゴン-ハノイ間の鉄道建設などで雇用を促進させ野心的な公共事業を実施しましたが、その資金は現地の農民から重税を徴収して賄ったため、地域経済を破壊する結果となりました。フランスは植民地支配を通じて現地に利益を還元すると主張しましたが、ベトナム人労働者への低賃金と劣悪な労働環境により、フランスへの不満が高まりました。例えば、1917年から1944年の間に、ミシュラン社のゴム農場で働いた契約就労者45,000人のうち、12,000人が病気と栄養失調で死亡しました。