ニクソン ドクトリン

リチャード ニクソンは、戦争集結のための計画実行を公約に掲げ、大統領に選出されました。計画はニクソン ドクトリンとして1969年7月に発表され、アジア諸国に対して自国の軍事防衛の自立を求める内容で、具体的には、南ベトナム軍に米軍の支援無しで戦うことを意味するベトナム戦争の「ベトナム化」を求めました。最近では、米軍はイラクに対して同様の対応をしていますが、これについては、だれもブッシュ ドクトリンと呼んでいません。
「策略家ディック(ニクソン大統領のこと)」の選挙があっても、1969年前半は戦争が拡大状況にありました。4月には、ベトナムに駐留する米軍兵の数が過去最高の543,400人に達しました。戦いが激しさを増す中、ニクソンはヘンリー・キッシンジャー補佐官をパリに派遣し、北ベトナムのレ ドク トと和平に向けた交渉を開始しました。
1969年になると米軍が国境を越えて存在するベトナム共産主義者を一掃するためにカンボジアへの爆撃を開始したため、カンボジア方面の北ベトナム軍は西方に移動しました。1970年には、北ベトナム軍と対等に戦う能力が無い南ベトナム軍を救出するために米軍はカンボジアに地上部隊を派遣しました。北ベトナム軍はカンボジア領に深く入り、1970年の夏には、同盟しているクメール ルージュと共に国の半分を占領し、世界的に有名なアンコールの寺院群も支配しました。
この新たな戦局の拡大によって、米国での反戦抗議はさらに活発化しました。オハイオ州のケント州立大学で起きた平和デモでは、州兵部隊によって4人の抗議者が射殺される事件も発生しました。反戦活動にはベトナム戦争退役軍人も参加するようになり、ベトナムからの撤退を望んでいるのは、徴兵を恐れている学生だけではなく、戦争がアメリカ国内を分断したことは明らかでした。
1972年の春、北ベトナム人は北緯17度線を越えて攻撃をするようになり、これに対して米国は北ベトナムへの爆撃回数を増やし、北ベトナムの港に機雷を設置することで対抗しました。1972年末のハイフォンとハノイで起きたクリスマス爆撃は、北ベトナムとの和平交渉で譲歩を勝ち取るために行なわれました。パリ協定は、最終的に1973年1月27日に米国、北ベトナム、南ベトナム、南ベトナム解放民族戦線によって締結され、停戦、米軍の全面撤退、アメリカ人捕虜590人の解放が規定されました。パリ協定は、南ベトナムに駐留する200,000人の北ベトナム軍については言及されませんでした。
ベトナム戦争には、米軍兵として合計314万人のアメリカ人(うち女性は7200人)がベトナムに派遣されました。公式にはアメリカ人の戦死者または行方不明者は58,183人と記録されています。ペンタゴンによると、米軍は1972年までに固定翼機3689機とヘリコプター4857機を失い、1,500万トンの弾薬を使用しました。ベトナム戦争の直接的な費用は1,650億米ドルでしたが、実際に経済に与えた影響は2倍以上だったと言われています。
また、1973年末までに、南ベトナム軍は223,748人、北ベトナム軍と南ベトナム解放民族戦線の犠牲者は合わせて100万人と推定されています。加えて、一般市民(ベトナム人口の10%)のうち約4百万人が負傷または死亡しましたが、その多くは米国の爆撃によるものでした。現在でも少なくともベトナム人300,000人とアメリカ人2200人が行方不明のままです。米国の関係者はベトナム、ラオス、カンボジアで倒れた仲間の遺骨を探し続けています。ベトナム側も近年カンボジアとラオスでの独自の行方不明者捜索活動を行なっています。行方不明者の遺族には、メディアを使って遺品を捜索する人もいます。