南ベトナムと北ベトナム

分断された南ベトナム
ジュネーブ協定が署名された後、南ベトナムは熱心な反共カトリック教徒のゴ ディン ジエムが率いる政府に支配されました。ジエム大統領の権力基盤は300日の境界線自由移動期間に北ベトナムから逃れてきた900,000人の難民によって大幅に強化されました。その支援者の多くはカトリック教徒でした。
アメリカがホーチミンの勝利を恐れたので、総選挙は実施されませんでした。ジエム大統領は最初の数年間で、犯罪組織だったビン スエン派と私軍を保有していたホアハオ教とカオダイ教を討伐し、効果的に権力を固めました。1957年の米国公式訪問中、アイゼンハワー大統領はジエム大統領をアジアの「奇跡の男」と呼びましたが、ジエム大統領は次第に反対派の扱いが残虐になり、政権運営に占める親族の割合が増していきました。
1960年代初頭、南ベトナムは大学生や仏教徒が主導した反政府運動に揺さぶられ、僧侶が公開的に焼身自殺した事件が世界に衝撃を与えました。米国はジエム大統領を責任と見なし、1963年11月に若い将軍が起こした軍事クーデターを背後から支援しました。ジエム大統領は逃亡を試みましたが、将軍たちはジエムと弟を殺害しました。しかし、ジエム大統領の常軌を逸した政策は次の軍事指導者に引き継がれました。

新しい北ベトナム
ジュネーブ協定は、ベトナム民主共和国の指導者たちがハノイに帰還し、北緯17度以北の全領土を統治することを認めました。新政府は権力を脅かす可能性の排除を開始し、何万人もの「地主」が、嫉妬深い隣人によって「治安委員会」に告発され、逮捕されました。新政府は10,000人から15,000人を処刑し、数千人を禁固刑に処しました。しかし、1956年に新政府は地方が激しい不安に陥っていることを把握すると、制御不能になることを懸念し、誤った政策の是正に取り組みました。

ベトナムで働くなら製造業への転職が熱い

私が転職して技術指導でベトナムへ訪れ始めたのは13年前になります。
私が働いていたのは自動車部品などを製造するメーカーでしたので
その時は現地採用での日本人スタッフを探すのはとても大変でした。
しかし最近はベトナムに住んでいる日本人が多くなったので、日本人スタッフを探すのは以前よりかは簡単になりましたが、技術者となると話は別です。友人が住むタイであっても技術者を探すのが大変なようです。

ここからが本題です。

この記事にたどり着いた人は、転職を考えられているからか、私の他の記事を読んで頂いているかのどちらかだと思います。転職を考えられている人に向けて記載しますので、ここでは歴史の話はしません。

オフィスなどで働いている人が製造業への転職を目指そうとすると大変だと思います。
未経験で働ける場所もありますが日本ですと、現在の給料より下がることが多いです。
海外で転職先を見つけた場合も給料が下がるのは同じです。

しかし、一つだけ大きな違う点があります。

海外で働く場合、生活費も下がるということ。
製造業であれば、下手をすると海外と日本で同じ給料のからスタートすることがあります。
それは私が働いていた外資系企業も未経験での就職者は日本でも中国でもベトナムでも同じ金額でした。
理由として海外拠点の製造業では慢性的に人手不足になっていることが大きいです。

また慢性的に人手不足になっているということから
勘の良い人なら気づかれる人もいるかと思います。
そうです、慢性的に人手不足ということは長く働けるということです。

現在、20代や30代で転職を考えている人は
製造業への転職を考えられるのはいかがでしょうか。

*40代50代となると、未経験でも可能な求人案件が少なくなるので製造業へ転職するならば30代までだと思います。

不吉な兆候

1945年の春までに、ベトミンは国の大部分、特に北部地域を制圧しました。8月中旬、ホーチミンはベトナム民族解放委員会を結成し、後に「8月革命」と呼ばれる全国総決起を呼びかけ、権力奪取に向けて行動を開始しました。中部では、バオダイが新政権を認める形で退位し、南部でも新政権が非共産主義組織との連立で権力を掌握しました。1945年9月2日にホーチミンは ハノイのバー ディン広場で独立を宣言しました。この間、ホーチミンは米国のトルーマン大統領と国務省宛に米国からの援助を求めて8通以上の書簡を送りましたが、返答はありませんでした。
1945年のポツダム会談では、ベトナムでの日本軍の武装解除が議題になり、中国の国民党が北緯16度より北の地域、イギリスが南の地域を担当することになりました。
英国がサイゴンに到着したとき、現地は混乱状態に陥っており、日本軍は敗北に打ちのめされ、フランス軍は脆弱化しており、ベトミンは主権を主張し、民兵がトラブルを引き起こしていました。英国に秩序回復を引き継ぎ、敗北した日本軍は解体されました。その後フランスのパラシュート部隊1400人が刑務所から解放されましたが、ホーチミンによる独立宣言に反発して街を攻撃し、男女子供に構わず暴行を加えました。これに対し、ベトミンは総攻撃を呼びかけ、フランス軍に対してゲリラ戦で対抗しました。しかし、9月24日にフランスのジャック フィリップ将軍がサイゴンに到着し、「フランスの遺産を取り戻しに来た」と高らかに宣言しました。終戦は、フランスを開放しましたが、ベトナムの植民地支配の状況は変わりませんでした。
北部では、中国の国民党軍が中国の共産主義者から逃れ、ハノイになだれ込んできました。ホーチミンは中国国民党の説得を試みましたが、国民党による占拠が長引くと、「見知らぬ悪魔より知り合いの悪魔の方がまし」と決断し、フランスの再進出を受け入れることにしました。ベトナムは、中国よりもフランスの植民地になることを選んだのです。フランスは、ベトナムをフランス領の国家として認める見返りに5年間駐屯しました。

フランスとの戦争
フランスは名目上はベトナムでの支配権を回復しましたが、1946年11月にフランスがハイフォンを砲撃し、何百人もの民間人を殺害した事件により、ベトナムの我慢が限界に達しました。数週間後のハノイでの戦闘を皮切りに、インドシナ戦争が勃発しました。ホーチミンとベトナム軍は山岳部に逃げ込み、そこで8年間戦いました。
ベトナム人の強固なナショナリズムに直面して、フランスは再度ベトナムを統治することは困難だと判断しました。米国による大規模な援助(アジアでドミノ式に共産主義が拡大するのを防ぐ努力)とベトナム人の生来の反共産主義的な国民性があったにもかかわらず、フランスにとっては勝ち目のない戦争でした。ホーチミンは当時フランスに対し「ベトナム軍がフランス軍を1名殺す間にフランス軍はベトナム軍を10名殺すだろうが、それでも最後にはベトナムが勝つ。」と言いました。
8年の戦争の後、ベトミンはベトナムとラオスとの国境付近をほぼ占領しました。1954年5月7日、57日間の包囲戦の末、ディエン ビエン フーで1万人以上の飢えたフランス人兵士がベトミンに降伏し、インドシナでのフランスの植民地政策が終わりました。翌日、ジュネーブ会談で紛争終結に向けた交渉が行われました。決議は囚人の交換を含んだもので、総選挙の実施までベトナムをベンハイ川(北緯17度線)を軍事境界線にして一次的に2つの地区に分けること、軍事境界線は300日間無料で通行可能にすること、 1956年7月20日に総選挙を実施することが規定されました。インドシナ戦争では、フランス側は35,000人以上の死者、48,000人の負傷者がでました。ベトナム側には死傷者の正確な数字はありませんが、フランス側よりはるかに被害が大きかったことは間違いありません。

フランスからの独立と第二次世界大戦

独立の願い
フランスの植民地時代を通じて、水面下でベトナム人の独立への思いが高まり、愛国主義的な定期刊行物の出版やフランスの駐屯兵の毒殺未遂など、表立った反抗が始まりました。
フエ王朝が愛国主義思想の中心であったため、フランスは皇帝を引退させ、1925年に仏国で勉強していたわずか12歳のバオ ダイに王位を継承させました。
反植民地活動の中では、土地の公平な配分を主張する共産主義が農民の不満や欲求を吸収し、拡大しました。
ベトナムの共産主義の歴史は、ホーチミンの政治活動の歴史であり、複雑に入り組んでいます。インドシナで最初のマルクス主義者グループは、1925年にホーチミンが中国 広東で設立したベトナム青年革命同志会であり、これが1930年2月のベトナム共産党設立に繋がりました。第二次世界大戦中の1941年にホーチミンはベトナム独立同盟会(通称ベトミン)を結成し、日本に抵抗しながら、広範な政治活動を行ないました。ベトミンは、国家主義活動でありながら、設立当初からホーチミンを代表する共産主義者たちによって組織されていましたが、ホーチミンは、実用主義であり、愛国心豊かな人民主義であったことから国家統一をする必要があると考えていました。

第二次世界大戦の勃発
1940年にフランスがナチスドイツに屈した際、親独のヴィシー政府についていたインドシナ連邦は日本軍のベトナムへの進駐を容認しましたが、日本軍はベトナムの統治をフランス植民地政府に任せたため、しばらくの間は日本の占領の影響はありませんでした。しかし、終戦に近づくと日本軍による米の接収が増え、同時に洪水と堤防崩壊に起因した飢饉が発生し、北ベトナムの1000万の人口のうち200万人が餓死しました。この頃ベトナムでフランスと日本に対峙できた組織は、米国からの支援を受けていたベトミンとホーチミンだけでした。ヨーロッパで戦況が進むに連れ、フランスも日本も敗戦国となったため、ベトミンはベトナムを勝ち取る機会を見出しました。

フランスによる植民地化の始まり

1847年にフランスはベトナムでの軍事活動を開始しました。ティウ チ帝がカトリック宣教師を抑圧したことに対し、フランス海軍がダナン港を攻撃したのです。1859年の初めにサイゴンが占領され、1862年にトゥ ドゥック帝はコーチシナ東部3州をフランスの直轄領とする条約を締結しました。その後の40年間、フランスは手当たり次第にインドシナの植民地開発を行いました。フランスは何度も頓挫しながら、無茶な開発を続けました。
1872年になると、実業家ジャン デュピュイが紅河を経由して中国 雲南省の軍人に塩と武器を供給するために軍を動かし、ハノイを占領しました。フランスは軍人のフランシス ガルニエをデュピュイを拘束すると見せかけて派遣し、デュピュイに代わってガルニエに北部を制圧させました。
1883年、トゥ ドゥック帝の死去から数週間後、フランスは首都フエを攻撃し、グエン王朝にフランスがベトナムの保護国となることを認めさせました。宮廷内では、クーデターや謎に満ちた皇帝の死、フランスの圧力外交が絡んで、王位継承をかけた悲劇的な闘いがありました。
1887年にフランス領インドシナ連邦が成立し、ベトナムの独立は失われましたが、フランス統治期間中にも各地で様々な抵抗活動がありました。また、植民地化により、ベトナムの拡大政策は終了し、カンボジアとラオスの領土は強制返還されました。
フランスの植民地当局は、サイゴン-ハノイ間の鉄道建設などで雇用を促進させ野心的な公共事業を実施しましたが、その資金は現地の農民から重税を徴収して賄ったため、地域経済を破壊する結果となりました。フランスは植民地支配を通じて現地に利益を還元すると主張しましたが、ベトナム人労働者への低賃金と劣悪な労働環境により、フランスへの不満が高まりました。例えば、1917年から1944年の間に、ミシュラン社のゴム農場で働いた契約就労者45,000人のうち、12,000人が病気と栄養失調で死亡しました。

内乱時代の幕開け

内乱の時代
17~18世紀は内乱のためにベトナムが南北に分断されていました。北部には後に黎王になる強大な力を持ったチン氏がおり、南部には、北部王朝に従順なように振る舞いながらも実効支配をするグエン氏がいました。強大な力を持つチン氏は何度もグエン氏を制圧しようとしましたが、チン氏が保有するポルトガルの兵器が、オランダがグエン氏に供給した兵器より劣っていたため失敗に終わりました。一方で、グエン氏は南方へ領土を拡大し、クメールが支配していたメコンデルタを占領しました。

タイソン党の乱
1765年にクイニョン近郊のタイソンで暴動が起こりました。後にタイソン党の乱として呼ばれる暴動で、グエン兄弟が先導し、10年に満たない期間で彼らはベトナム中部地域全体を支配するようになりました。1783年、グエン兄弟はグエン氏が支配していたサイゴンを制圧し、王子とその家族を殺害しました。その後、グエン兄弟のうち、グエン ルが南部を支配し、グエン ニャックが中部を支配しました。
タイソン党の乱はその後も北部のチン氏を討伐しました。チン氏は中国に働きかけ、中国が介入しましたが、グエン3兄弟の三男のグエン フエは、自ら皇帝クワン チュンと宣言し、1789年にドン ダで中国軍に圧倒的に歴史的勝利を収め、再び中国を撃退しました。
一方、南部から先の支配者グエン氏の生き残りであるグエン アインがグエン兄弟の反乱軍に対する抗戦を開始し、次第に反乱軍を撃破していきました。グエン アインはハノイを制圧し、1802年にザー ロン皇帝と宣言、グエン王朝が始まりました。2世紀に渡る内乱は収束され、ベトナム全土が統一され、フエが新首都になりました。

グエン王朝の長期政権
ザー ロン帝は、その地位を盤石にするために儒教の価値観に立ち返り、かつてのエリート層による統治を復活させ、タイソン党の乱で乱れた秩序を取り戻しました。
ザー ロン帝の息子のミン マン帝に引き継がれると、ミン マン帝はカトリック教を儒教に対する脅威と見なし、西洋の影響があるものすべてを敵視する鎖国政策をとりました。
グエン王朝の初期の皇帝たちは、先代からの領土拡大政策を引き継ぎ、カンボジアや西方に広がる山岳地帯に侵攻しました。その領土はラオスやタイにおよびクメール王国を脅かしました。

レー ロイの登場

1418年、地方豪族のレー ロイは、国内を旅しながら、すべての財産を注いで兵力を結集し、1428年にラムソン蜂起を起こして、中国を撃退しました。その後、レー ロイは黎王朝を創立し、自らを皇帝と宣言しました。レー ロイは今日でもベトナムで高い人気を誇る英雄です。
レー ロイが中国に勝利した後、レー ロイの軍事顧問となっていたグエン チャイは、有名な独立宣言である平呉大誥を記しました。平呉大誥にはベトナムの激しい独立精神が書かれており、6世紀後に国家主義が勃興した際にも引用されました。

「おもうに我が大越国は実に文献の邦(文明の国)たり、山川の封域(領域)は既に深くして、南北(ベトナムと中国)の風俗また異なる、趙丁李陳(ベトナムの各王朝)の我が国を初めて造れるより、漢唐宋元(中国の各王朝)と各々一方に帝たり(それぞれに皇帝がいた)、強弱は時によりて不同ありといえども、豪傑は世に末だかつて乏しからず(英雄に事欠くことはなかった。)」
レー ロイとその後継者たちはチャム人を南方に追いやり、チャンパ王国を滅亡させました。また、ラオスの東部地域もベトナムへの従属を強いられました。

そしてヨーロッパ人の到来がありました。
最初にベトナムを訪れたヨーロッパ人は、1516年にダナンに上陸したポルトガルの船員で、その後すぐにドミニコ会の宣教師がやってきました。その数十年後にポルトガルはベトナムとの交易を開始し、また、日本人と中国人がファイフォ(現代のホイアン)に商業入植地を作りました。400年間スペインに占領されたフィリピンを除けば、ベトナムはアジアの国々の中で最もカトリック教の影響を受けた国です。

歴史に見る中国との関係

中国による1000年の支配
中国が紀元前2世紀に紅河デルタを征服して以来、多くの入植者、官僚、学者たちが統治を強化するためにベトナムにやってきました。
地域の指導者の中には中国に対する不満を持つ者もあり、西暦40年には、チュン姉妹(ハイ バー チュン)が反乱を起こし、中国総督を逃亡に追い込み、チュン姉妹は独立したベトナムの女王になったことを宣言しました。西暦43年になると中国側は反乱鎮圧軍を派遣し、チュン姉妹は激戦の末に敗北し、ハットザン川に身を投げました。3世紀から6世紀にかけても中国の圧政、強制労働、搾取に対し、数多くの小規模な反乱がありましたが、すべてが鎮圧されました。
この時代、ベトナムは中国とインドの間の海運の重要な拠点港であり、中国は儒教、道教、大乗仏教を、インドは上座部仏教をベトナムにもたらしました。それらの信徒たちは信仰だけではなく、科学や医学の知識もベトナムに広げたので、ベトナムからも偉大な医者や植物学者、科学者が誕生しました。
初期のベトナム人は、中国から堤防の建設や灌漑工事などの多くを学びました。これらの技術革新によって、稲作が「命の糧」となり、今日に至ってもベトナムの生活基盤となっています。食糧の生産能力の増加に伴い、人口も増加したため、ベトナム人は新たな土地を求めるようになり、西側の険しいチュンソン山脈を避けて、南方へ向かいました。

中国からの解放
10世紀初めになると、中国の唐王朝が衰退したため、ベトナム人は長年の中国の支配から脱するために反乱を起こしました。938年に、愛国者で知られるゴー クエンが、バクダン河(白藤江)の戦いで中国軍を破り、1000年の中国統治を終結させました。しかし、これがベトナムと強大な北の隣国との最後の戦いとはなりませんでした。
11世紀から13世紀にかけて、リー タイ トーが創設した李王朝は盤石な統治によって独立が守られました。李王朝時代も中国やクメール王国、チャム王国がベトナムに侵攻してきましたが、すべて撃退されました。また、ベトナムは南方への進出を続け、着々とチャム王国の領土を統合していきました。
13世紀半ばになると、モンゴルのフビライ ハーンが中国を統一し、続いて、チャンパ王国に侵攻するという口実で、ベトナムに領土を横断する権利を要求してきました。これをベトナムが拒否すると、モンゴルは50万の軍勢でベトナムに侵攻してきました。ベトナムは、伝説の将軍チャン フン ダオがモンゴルに立ち向かい、バクダン河の戦いで後世に語り継がれる歴史的勝利をおさめました。

中国の復権
中国は15世紀初頭に再びベトナムの統治権を奪取し、ベトナムの公文書と知的財産を中国に持ち去ってしまったため、ベトナムは修復不能なレベルまで文明を喪失する事態に陥りました。1407年以降、中国はベトナムの国土をほぼ制圧し、重課税と強制労働を強要しました。この時代に、詩人のグエン チャイ(1380-1442)は次の言葉を残しました。
「東の海の水を使い果たしても、不快感を洗い流すことはできない。南の山脈の竹を使い果たしても、全ての罪を記録することはできない。」

ベトナムの黎明期

ベトナムには人の心を揺さぶる豊かな歴史があります。ベトナムはアメリカとの戦争で注目を浴びましたが、その何世紀も前から中国、クメール、チャム、モンゴルとの争いの歴史が続きました。ベトナムは、中国の支配下にあった1000年間で同国から高度な文明を受け継ぎました。その後はフランスの植民地になりましたが、20世紀の後半になるまではベトナムが歴史上の表舞台に登場することはありませんでした。アメリカとの戦争は、それまで何世紀にも渡るベトナムへの侵略の歴史の最後の闘いでしたが、アメリカが何をしても、どれだけ長期戦になっても、ベトナムが屈することはありませんでした。当時ワシントンにいた指導者たちがこれから述べるベトナムの誇るべき歴史を少しでも学んでいれば、ベトナム戦争の悲劇と傷はこれほど深くならなかったのかもしれません。
ベトナムに行ったことがあれば、どの都市にも同じ名前の「通り」があることに気が付くと思います。その「通り」には、2000年以上もの間、外国からの侵攻を食い止めてきたベトナムの英雄たちの名前が記されており、その偉業は綿々と続く世代に引き継がれてきたのです。

ベトナム北部では、およそ50万年前にすでに人類の営みがあったことが最近の考古学研究で分かっています。1万年前には同じ北部地域で新石器時代になり、紀元前7000年には初期の農業が早くも始まりました。銅鼓で知られる青銅器文化のドンソン文化は、紀元前3世紀頃に現れました。
西暦1〜6世紀にかけて、ベトナムは南部は精巧な芸術と建築で知られるカンボジアのインド系王国の扶南に属していました。この王国はクメール人からはノコア プノンと呼ばれ、王国の中心は現在のカンボジア タケオ州の近くにあるアンコール ボレイに築いた防壁に守られていました。扶南人は交通と稲作の灌漑を目的とした緻密な用水システムを構築し、メコンデルタのオケオには港湾都市を持ち、中国やインドネシア、ペルシャ、地中海沿岸地域と交易をしていたことがわかっています。
現在のダナン近郊には西暦2世紀後半にヒンズー教のチャンパ王国が興りました。 チャンパ王国は扶南と同じく、サンスクリット語を使い、芸術や文化もインドの影響を強く受けました。8世紀になると、チャンパ王国は南方の現在のニャチャンやファンランの周辺にまで拡大しました。チャム王国は好戦的で、インドシナ各地を襲撃し、北部のベトナム人と南部のクメール人は常に戦争状態にありましたが、次第にチャム王国にとって戦争が重荷になり、南北を大国に挟まれることにより力を失っていきました。ダナンのチャム彫刻博物館にはチャム王国の彫刻品が展示されていますので、訪れてみて下さい。